「北海道胆振地方地震に付いて」

震源の深さが40kmほどの地震の場合、余震は喘息の咳のような発生の仕方をするケースが多い。

震度1から3ほどの余震が10分以内に2、3回発生し、それよりは10分ほど長い間隔を以って、数分おきに余震が複数回発生する形を繰り返し、震度7が本震の場合は最大で震度6の余震の可能性があり、5強の地震が1週間以内に2回、震度4クラスの余震は4回から6回発生し、平均して発生して来る地震の震度は1が多いものの、震源の浅い地震よりは震度2から3ほどの余震が比較的が多くなる。

この常に余震が続く傾向は短くても3日ほどは収まらない。

2日ほどは1時間に7回程の余震が発生する傾向が続き、その後間隔は少しずつ長くなるものの、3時間から半日ほど余震が無い状態になると、今度は震度の大きな余震が発生し易くなる。

余震傾向が安定化するには2年ほどの歳月を要し、最初の1週間は常に揺れていると感じるほど余震は頻発し、やがて余震の間隔は広がってくるが、少し落ち着いてきたかなと感じるられるには3ヶ月ほどの時間が必要になる。

こうした地震の場合、本震の時は聞こえなかったかも知れないが、余震発生前にはゴーと言う風のが吹いているような音が聞こえてくるようになる。

ただし、この音で発生する余震の強さを測る事は出来ない。

音が聞こえてきて直後に揺れる場合も、音が聞こえ始めてから数秒経過してから揺れ始める場合も、これは実際の震源からの距離に関係するものであり、地震の規模を特定するには至らない。

また地震の揺れには方向が有り、縦と横のような関係で同じ地域でも構造物の様式に拠っては揺れの感じ方が異なる。

大きな余震の場合は、早ければ40秒前くらいに猫が家から出ようと慌て、犬なども全く脈絡も無く遠吠えを始める事がある。

或いは文鳥やカナリアなどの鳥が騒ぎ始めるなどは要注意の可能性がある。

またこれに伴って発生する他の地震の可能性は、同じ北海道とは限らない。

日本全体が押された状態で蓄積されているエネルギーの解放は日本全国均等に存在し、次は全く離れた地域でやはり震度6クラスの地震が発生する事になる。

北海道地方の方は、出来るだけ一人にならないように、こうした時ほど家族が一致団結して恐怖を克服してください。

また急激な気候の変化、朝晩は急激に気温が下がる場合があるので、お子さんや高齢者の様子には常に注意してください。

依然震度5強、震度6クラスの余震が発生する確率は高く、1週間以内は特に注意が必要です。

でもこれは永遠に続くものではなく、必ず終わりの来るものであり、発生したと言う事は終わりに向かっている事を思ってください。

「時の流れは優しいか、残酷か」

日本がポツダム宣言を受諾後、満州帝国は皇帝溥儀(ふぎ)が退位し、連合国のソビエト軍が進駐してきた・・・、これで終戦とともに勃発していた暴民の横行による混乱は収まり、秩序が回復することを期待した満州の新京、つまり一般日本人居住地の人たちは実際にソビエト軍がアメリカ製のジープに乗って到着した瞬間から、敗戦国の人民であると言う現実を突きつけられた。

「ダモイ・マダム」と声をかけながらソビエト兵は女性を物陰に連れて行き暴行、抵抗する家族は銃の台尻で殴られるのはまだ良いほうで、射殺されたり強制連行されたりし、家にあった金品は収奪され時計や万年筆は例外なく没収、着ているいるものは剥がれて放り出された。
自身も身ぐるみ剥がれた男性の目の前で、幼い姉妹と妻が裸にされ数人の兵士たちにかわるがわる暴行されていった家では、その後家族全員が自殺した。

こうした略奪、暴行は新京のあちこちで行われ、当時自分の娘を守るために、母親自身がソビエト兵への「捧げもの」に志願した者もいたが、そうした彼女たちの思いは結果として反映されることは無かった。
また奉天では16837人の男性が数日の労役を名目にソビエトへ送られ、強制労働につかされ、チチハルでも20歳から45歳までの男性が、こちらはソビエト送りにはならなかったものの、連行された。

日本へ帰還しようとする人々の姿は悲惨だった・・・、歯が欠けた下駄を片方だけ履き、片方は裸足で背中に幼児を背負い歩く母親、汚れてボロボロのリュックを担いでソビエト兵に怯えながら、また中国人から石を投げつけられないかと小走りに歩く男性・・・、力尽き道端でうずくまる母親のそばに立つ不安そうな幼い姉弟、倒れた両親は既に死んでいたのだろうが、その傍で泣き叫ぶ力も無く死を待つ幼児、途中で暴行を受けたのか、頭から血を流した男性と、片足を引きずるように歩く女性、こうした中で子供たちは親からはぐれ、また自身の命が尽きようとしていることを悟った日本人たちは、僅かな望みにすがり中国人に自分の子供を託していったのである。

ポツダム宣言が受諾された時点で満州の全ての権益は、中国に帰属されることがポツダム宣言にも明記されていた・・・、しかしソビエト軍は全ての銀行から金を奪い、施設の殆どを収奪して、思うが侭のありようだったが、こうしたソビエトに対して勿論中国政府も抗議したものの、何も改善されず、中国は莫大な損害を被っていた。
思うに満州と言うところは不思議なところである、100年もの間ここには現実的統治に成功した者がいなかった。

列強諸国がみんなで狙っていながら、日本、そして敗戦でソビエトが、そして中国国府軍が、その直後に中国共産軍の進駐である・・・、ここに人は何をみたのであろうか・・・。
日本が満州政策に向かったのは単純な拡大主義、また帝国主義、言葉では何とでも言えようが「侵略」であったことは間違いないだろう、こうした背景から日本の敗戦と、このような引き上げの際の悲惨な光景はある種「運命」だったかも知れない。

だが、満州に渡った日本人の中には大陸に夢をはせ、そこに自身の理想を求め、満州で骨を埋める覚悟をした者たちも多かったのではないか、「王道楽土」「五族協和」と言うスローガンは、まるで日本の身勝手な見方だったし、そこに本質は無く空しいものだったかも知れない、その結果が3000万人の満州人たちから、最後石を投げられ、憎しみの視線に晒されながらの日本人引き上げになったのだろう・・・が、満州引き上げの悲惨な記録の中には、その絶望的な状況だからこそ光り輝くさまざまなエピソードがちりばめられた。
敵国の子供にもかかわらず、乳を求めて泣く子どもを抱きかかえた者がいた、息も絶え絶えの母親の言葉に「よし、分かった心配するな」と答えた者がいた、両親とはぐれ行き場を失った子供を家に連れ帰り、食事を与え服を着せてくれた者がいた。

こうした「満州人の親切」は中国と言う長い歴史の中で、戦乱を幾度も潜り抜けてきた民族ゆえの博愛精神がその根底に潜んでいることは確かだろうが、それ以上に満州へ移り住んだ日本人が、全てただ他国を陵辱し収奪し、虐げようとした者だけではなかったことをもまた、物語っていると私は信じたいのである。
日本軍が中国で行った残虐な仕打ちは確かに事実だろう、だがそんな日本の姿勢に義憤を感じ、擁護しようとした日本人もいた・・・、その結果が敵国の子供に乳を与えてくれた者を、服を着せてご飯を食べさせてくれた者に繋がっていたと信じたいのである。

然るに戦後60年と言う歳月を得て中国から帰国した「中国残留日本人」に対する日本政府の在り様は何だ・・・、この国民の在り様は何だ・・・、帰ってきても言葉が通じない、経済的にも年金も付かなければ、親族も負担を恐れ、「今頃戻って来られても・・・」と言う声さえ聞こえてくる。
苦難の下から僅かな望みに全てを託した母親や、その意を汲んだ満州の人たちを何だと思っているのか。
帰国して家族に会っても更に孤独を憶える、やはり中国の育ての親のほうが良い・・・と言う彼等の言葉を自身に当てはめて、噛み締めるがいい・・・、国家の誇りとはこうした場面での話を言うのだ。

もはや日本の中では「中国残留日本人」と言う言葉を聞いても「何それ・・」と言う返事が返って来るかも知れない、また「ああ、そう言えばそうしたことがあった・・・」ぐらいにしか憶えていない人もいるだろう、
しかしだからこそ、私はこうして書きとめずには置けない、また意見が対立してもこうした事実や歴史を忘れてはいけない・・・と思うのである。

 

「空からオタマジャクシが・・・」

この事件と言うか現象が最初に発見されたのは石川県七尾市中島町だったが、同町センター職員男性が2009年6月4日午後4時30分頃、駐車場にいたところ、背後からペタペタ・・と言う音が聞こえ、振り向くと何か黒いものがポツポツ落ちてくる・・・、何かと思って近づいてみると、なんとそれは体長2cmから3cmのオタマジャクシだったのである。
そのオタマジャクシは殆ど落下の衝撃で潰れた状態だったが、この付近ではこの男性以外にもこうしたペタペタ・・・と言う音を聞いていた人が存在していて、100匹ほどのオタマジャクシが、300平方メートルに渡って空から降ってきたのである。

こうした現象が発生する原因として竜巻が考えられると、金沢工業大学の教授が見解したが、当日の天気概況では竜巻は起りようも無い気象条件だった。

またそれから2日後の6月6日、今度は七尾市から100キロメートルほど離れた石川県白山市徳丸町、ここでも朝方7時30分頃、駐車場や車の上にオタマジャクシが落ちているのを、石川県職員の男性が発見したが、それはやはり高いところから落下したようで全て潰れていて、約30匹ほどが5平方メートルに渡って散乱していた。
同じ駐車場を利用している会社員女性が、この前日の6月5日午後8時頃に見たときは、オタマジャクシが落ちていなかったことから、この現象が起った時間帯は5日夜から6日早朝と思われるが、この現場と道路を挟んだところに住んでいる住人は、夜中にどーんと地震のような音がして家が揺れたように思った・・・とも証言している。

この現象でも5日、6日とも金沢気象台では竜巻が起る気象条件には程遠いとしていて、地震も観測されていなかった。

そして6月9日午後6時ごろ、今度は石川県中能登町能登部の同町職員男性によって、自宅玄関前に駐車してあった軽トラックの荷台周辺に散乱する小さな魚、10匹ほどが発見されたが、この軽トラックは1日中動かしておらず、午後3時ごろに見たときは何も落ちていなかったとしている。

この現象でも当日、前日には竜巻の発生などは考えられない気象条件だった。
また地元新聞では宮城県会津若松の会社役員の男性から、6月7日午前11時頃車のワイパーに引っかかっているオタマジャクシがいた・・・と言う報告も受けているが、このオタマジャクシは1匹だけだったと言うことだ。

ではこの現象の謎解きをしようか・・・。
超常現象研究家の大槻教授は金沢工業大学教授と同じように、小さな局地的な竜巻かそれに似たような気象条件によって、引き上げられたものが降ってきた・・・と見解したが、この数日の気象条件は積乱雲の発達もなく、穏やかで到底竜巻の発生は考えられない状況だった。
また別の地元研究家は鳥が空中で吐き出したのではないか・・・と言う仮説を立てたが、野鳥研究の専門家は普通鳥類はオタマジャクシを食べない・・・と見解した。

話は飛ぶが私はどこかで「呪いの人形」の話をした記憶があるのだが、ある寺に時々動くと言われている呪いの人形が安置されていて、珍しいのでみんなが見学に来るが、見ていたら人形の袖が微かに揺れたとしよう・・・・どう思うだろうか、大概の人は声を上げて逃げるのではないだろうか。
だがこの場合、もしかしたらそれは風のせいだったかも知れない、また住職が人を呼び寄せる為に仕掛けをしていたかも知れない、そして最後に本当に呪いで動いていたかも知れないが、人間は先に「呪いの人形」としてあるものは理由を問わず全て呪いのせいにしてしまうのである。

こうした空から普通降らないものが降ってくる現象を、ファフロッキーズ現象と言い、何もオタマジャクシだけではなく、魚、カエル、小石や、信じられないが血や肉片が降ってきた記録さえ存在する、その原因に関しては竜巻によって吸い上げられた水生生物が、後に降ってくるのだとも言われているが、実際のところこうした現象が発生した近辺で竜巻などが確認されたことは1度も無い・・・、つまり未だに原因は不明と言うことだ。

この一連の不思議現象の場合、実際空から降ってくるのを確認したのは一番最初の現象だけではないだろうか、ペタペタ・・・と音がした訳だから、これの現象については確かに空からオタマジャクシが降ってきていたと推測できる、つまり間違い無く超常現象だったと思われるが、それ以外の現象については、降ってくるのが目撃されていない、また落ちている数が少なすぎることから、かろうじて白山市の現象までは超常現象としても、それ以降の現象については自然現象の誤差に含まれる可能性が高い。

能登町の現象は小魚、体長2cmほどのフナの稚魚10匹程度が軽トラックの荷台付近に落ちていたとなると、サギなどが空中で声を発したとき、喉から戻った小魚が落ちた可能性が高く、普段からこうしたことは毎年頻繁に発生していたのだが、特に注意してみていなかったことから、発見されていなかったが、今回オタマジャクシの件が話題となっていて、そうした現象を発見し易い環境になっていた・・・、いやもっと言えば、そうした現象を半分探しながら見ていく、それで僅かなことも発見したのではないだろうか。

つまり、それまでもあったが、見ていなかっただけのものを見た・・・と言うべきなのではないだろうか、宮城県の現象も1匹だけだと、鳥が間違えて呑んでしまったオタマジャクシが、吐き出されただけの可能性のほうが、超常現象より確率が高いように思う。
また白山市の現象も基本的には疑わしいのは範囲が狭すぎる点であり、5平方メートルであれば、バケツで汲んでばら撒くことだって可能だと言うことだが、誤解なきよう・・・、あくまでも可能性の問題だ。
こうしたことから今回の超常現象については一連に、同じように見るのは難しいように思う・・・、本当の超常現象と自然現象を希望的観測で同じものにしてることが、現象を複雑にしているのではないか・・・。

とは言え、空からオタマジャクシが降ってくるなど、そう滅多にあるものではない、少なくとも最初に起った現象はまず間違なく超常現象であり、これは後世に記録すべき現象である。
またそのほかの現象についても超常現象の可能性は高いが、今一歩の検証と冷静さが必要なのではないかと思う。

ちなみに、この現象は翌年の2010年には極端に事例がなくなり、2011年以降は現象そのものが確認されていない。2年間だけ鳥が食べたオタマジャクシを吐き出したと言う事になり、ではこの2年間だけ鳥に特殊な事情が在ったのだろうか・・・。

「日本の食糧自給政策」

2008年に起った石油高騰、穀物市場の異常な拡大は、それまで全く気にも留めなかった日本の食糧事情に一種の恐慌を起こしたが、日本の食糧自給率の低さは先進7カ国中で最も低い、いや世界的に見てもこれほど自給率が低い国は珍しいくらいだが、穀物相場の異常な値上がりは、嫌が上にも国民の食料自給意識を高め、米の偽装問題とあいまって政府、農林水産省への食料政策に対する批判は日増しに強まっていった。

こうした背景から遅まきながら農林水産省が打ち出した政策と言うのがまた、なかなかに味わい深いというか、いかにもお役所らしいことになっていて、大きな声では言えないが2008年末、漁業関係では新しく特産品を開発している婦人団体などに、それぞれ1団体6億から8億近くの金が拠出されることになり、各漁協や団体などではその金の使い道に苦慮した挙句、使いもしない冷凍倉庫や加工場、大掛かりなアイスクリーム製造機まで作って、利用方法は現在もまだ検討中・・・と言う地域があったり、こうした金目当てに行政が無理やり漁業関係の特産品開発団体を作るよう、漁協婦人部に持ちかけたり・・・と言うことが発生していた。

いきなり大金が舞い込んでくると言っても、その使い道などきまっていない小規模な婦人団体では、「一体こんな金、どうして使ったら良いものか・・・」と悩んでいたが、どうもこの背景には2008年度中に総選挙を想定した麻生政権の、選挙対策のためのバラマキでは・・・と言う噂さが流れていた。

また食料自給率を何が何でも向上させたい麻生政権と農林水産省は、更に曖昧な政策を打ち出していく・・・、一方で米作り農地の減反を進めながら、その一方で休耕田の復元政策を打ち出したのである。
そしてこの「休耕田の復元」の為の予算はほぼ「無制限」に近く、各行政区はこの甘い汁を吸おうと必死になっていき、こうした行政に建設会社がなどがまた群がる、懐かしくも愚かな日本の仕組みが「復元」してくるのだった。

県や市などでは国から文句なしに金が出るこの休耕田復元の為の予算獲得のため、何とかして休耕田の復元ができないものかと考え、昨年以降増えていた都会での失業者や、若手の農業希望者の獲得に必死になっていたが、こうした行政の動きに対して若手の農業希望者はよりよい条件を求め、一番条件の良い地域へ移り住み、そこで各種の補助を受けながら補助金が切れたらまた別の場所で・・・と言うぐあいの「渡り鳥農業者」となっていく傾向が現れてきた。

しかし耕作地整備でも巨額の資金が落ちるこの制度の予算は何が何でも欲しい・・・、ここは多少のことは目をつむって・・・、と言うことになるが、地域おこしプランナーなどにこうした人選を頼み、そして他府県から若手の農業希望者を迎えるが、大体地域起こしプランナーなどが連れてくる人材には一定の傾向があり、それはしっかり根を張って農業・・・と言うよりは「生活を楽しむ」ことに生きることの重点をおいた者が多くなる・・・、つまり農業をスタイルと考えているものが多くなるのだが、こうした姿勢は、与えられる物がより多い方向へと移動していくもので、定着の可能性は少なくなる。

行政や土建業者はこうしたことが分かっていても、復元農地の整備の仕事が欲しくて、「来てくれれば誰でも」になるが、例えば1・5ヘクタールの農地整備に要する費用は2500万円、しかもこうして農地を復元すれば中央のご機嫌も取れるし、仕事や金も入る、政府は「食料自給率向上の為の政策をやってますよ」と声高に国民にアピールできるのである。

その結果がどうなるかと言えば、他府県から来た農業者は全ておんぶに抱っこで農業経営を始め、機械の調達から、ひどい場合は田を耕したり、苗を植える作業までも地元ボランティアに任せて当然の形態になっていくが、やっと引っ張ってきた若手農業経営者だから、行政は村や区などの既存組織を使ってでもボランティアを集め、彼等が自分たちの農作業を休んで、こうしたボランティアにかり出されている場合すら発生する。

そしてやがてこうした農業経営者は補助金が切れると生活できなくなるので、別の府県のまた条件の良い地域へと移動していく、せっかくマスコミも応援し、地域がボランティアまでして支えても、3年後には復元した農地は、また荒地に戻る可能性が高くなっているのである。

こうした政策で使われるお金は、農地整備費用が1・5ヘクタールで2500万円、その補助金は3年でおおよそ250万円、その他各市町村の補助金が200万円、ボランティアも賃料に換算すると、こうして3年間休耕田を復元した費用は大体4000万円を超えていくだろうが、もし私や他の既存農業従事者が4000万円あれば、耕作面積で6倍以上の10ヘクタール、雇用で言えば高齢者などに無理の無い程度で仕事を依頼し、10人の雇用を10年間は維持できるだろう。

だがどうしたことか、既存農業従事者にはこうした話が来ないのは、地域おこしプランナーと言う存在が、常に外の世界への発信しか見ていないためで、本当は地域のことを一番知らない者がその任に当たっているからであり、簡単に言えば「こんな田舎から出たことも無いやつ等には、新しい農業など理解できまい・・・」と言う感覚があるからだと思う。
そして行政がどうしてこうした地域プランナーなる者に依存するかと言えば、根底にある都会に対するコンプレックスではないかと思うが、もっと重要なことはこうした食料自給政策の予算が「国民の税金」であると言う点だろう・・・。

最後に一言、勿論若手農業従事者の全てがこうしたことだと言うわけではなく、全力で夢を追い求めている人もいるだろう・・・、私のところへも来てくれている人の中にも夢を持って農業に転身した人もいる。
この記事はそうした諸氏を指しているものではない。
基本的に補助金を貰って維持する仕事は続かない、そして農業は・・・いや全ての職業は、遊びではない。

「日本の暴動」・後編

暴動の概念は治安を崩壊させ法を無視して収奪、暴力を行うことだが、これはあくまで支配階級の側に立った物言いであることは事実で、実際暴動が起こるときはそれなりの理由が発生している・・・かもしくはそれを扇動、推し進めたい意図があるからで、こうした意味では、暴動を起こした側からすればそれ自体に何らかの要求がある。
それは宗教思想の自由なのか、あるいは生活が困難なことを訴えるのか、または政治に対する不満なのか・・・だが、過去日本におけるこうした暴動、乱と言ったものの背景には必ず「食べて行けない」と言う事実が存在し、そしてこれは洋の東西を問わず暴動の基本原理の1つでもある。

日本にその記録上始めて一揆が起こったのは南北朝時代からだと言われているが、この時代の一揆はその原因に「徳政令」があり、すなわちこれは全ての契約を無効にする、例えば借金の証文などはそれが無効になるという、麻薬のような制度があったからで、人々はこうした徳政令を求めて一揆を起こす傾向があった。
つまりこの時代の一揆はそれを起こす動機があったからだ。

歴史に名高い土一揆は「正長の土一揆」だが、1428年に起こったこの一揆の背景は宗教ではなく庶民の生活にあった・・・、京都、奈良の寺院に土民が入り込み品物を収奪、借用証書を破棄していったのは、唯でさえ高い年貢を荘園領主から収奪されていた領民が、その上これらが営むか、もしくはこうした荘園領主や幕府と通じた高利貸しによって、高い金利の金を借らざるを得ない状況に追い込まれ、なおかつ経済的に破綻してしまったからだった。
畿内一円に拡大したこの一揆の痛手は大きく、荘園制度は衰退、幕府もどんどん力を失っていったが、これから後に起こる嘉吉の一揆(1441年)や、享徳の一揆(1454年)などは明確に徳政令目当ての一揆であり、幕府や荘園領主は徳政令をだして こうした一揆をしのぐが、それはまた次なる一揆を起こさせる原動力にもなる危険な薬だった。

またこうした徳政令目当ての一揆とは別に影で扇動するものがいる一揆、言わば政治的背景を持った一揆は、苦しい農民が荘園領主や国人の対立を利用する場合と、荘園領主や国人が農民を利用する場合があったが、いずれにせよ、一揆とは非常に利用され易いものであったことは確かだ。

そしてこうした中で日本で2回あった大きな宗教一揆が島原の乱であり、一向一揆だが、両者には似て非なるものがあり、島原の乱は確かに小西行長の遺臣が先導したものの、その役割はやはり宗教的意義の方が強く、結果として全員が死んでいることを考えれば、その性格には純粋なものが感じられるが、一向一揆には政治的な意図が感じられる・・・、このことから両者を一まとめにして宗教一揆とできない理由が発生するのである。

蓮如の北陸布教で形成された本願寺門徒は農村の国人、中小名主層、一般農民が中核となっていて、彼等は末寺の坊主を中心にして門徒組織を作り上げ、この組織を利用した国人門徒と一般農民門徒が結集して、守護勢力に対して武力抗争を起こしたのが加賀一向一揆であり、これによって守護の富樫政親(とがし・まさちか)を滅ぼし、以後100年に及んで加賀は「百姓の持ちたる国のようなり・・」となる。
しかしこの一揆は戦国大名の支配に対する抵抗・・・、つまり政治的なものであり、こうした点では同じ宗教が冒頭にあっても、島原の乱とは全くその性格が異なるものだった。

一向一揆を書けばそれだけで数冊の本になってしまうので、この記事では全部紹介できないが、今夜はわかり易い例として一人の女の目を通して見た、一向一揆の本質を書いておこうか・・・。

一向一揆が次第にその勢力を拡大し、越前にまで攻め込む勢いになった頃、1500年前後のことだが、このときの一揆の首領たちは越前で迫害を受けて加賀に逃げてきた本願寺の僧侶たちだった。
「かの雪辱を晴らすときは今・・」僧侶たちは農民を煽り立て、仏の力を今こそ世に示さん・・・とばかりにはやし立てる。
「いけ、いけ・・・かの者どもは仏敵である、生かして返せばこのこの世は無間地獄となろう・・・、敵に一歩でも切り込む者の歩む道は極楽浄土の道、敵に後ろを見せる者はそこから既に地獄の道となろう」

農民たちはこの言葉を信じて越前攻めを敢行、死に物狂いで戦うが、戦上手の越前朝倉氏の反撃は鬼神の如くすばやく、その上勇猛果敢だった・・・、敵地めがけて進軍した一向衆は惨敗を喫してしまう。
そして多くの農民はこの戦いで死んで行ったが、勇ましい言葉で農民たちを煽っていた僧侶たちはこそこそと加賀へ逃げ帰った。
しかしこうした戦局にもかかわらず、一人越前にとどまり奮戦していた土豪が、石川郡松任組(いしかわぐん・まっとうぐみ)の「玄任」と言う男だった・・・、彼の組は総勢300人、たったこれだけで朝倉軍を足止めし、最後まで果敢に戦い全員が討ち死にした。

この戦から程なく、亭主を失った「玄任」の妻は越前から逃げ帰った僧侶の所へ来て涙を流す・・・、僧侶は同情して殊勝な面持ちで彼女を慰めた・・・、「さぞ辛かろう、がしかし命あるものは必ずいつかは別れ行くもの、それが人の定めである」
「此度のそなたの亭主殿の働き、教えを信じてのあの果敢な戦ぶり・・・、仏が救わぬはずがあろうか・・・、さあいつまでも泣きくれていてはならん、冥福を祈るのだ、私も読経をして進ぜようほどに・・」

そのとき玄任の妻はおもむろに顔を上げると、「いえ、私は何も亭主と別れてしまったから泣いているのではありません、お坊様、あなたを思って泣いているのです・・・」と言うのだ。
つまりこうだ、戦いが始まるとき敵に向かうものは極楽行き、逃げる者は地獄行きだといったから、亭主の極楽行きはまず間違いないが、逃げ帰った僧侶は無間地獄に落ちるに違いない、それを思うとかわいそうで泣いているのだ・・・と言うわけだ。

この妻、相当悔しかったに違いない、戦を煽って人々や亭主を戦地に送り、負ければ自分だけ帰ってくるその姿勢を痛烈に非難しているのだろうが、この話は妻の心の優しさとして記録に残っているあたり、妻の悔しさに同情した誰かが、亭主が死んでも人のことまで心配する愚かな女として残したのであり、これが僧侶批判が明白なら一向宗門の記録には残らなかっただろう。

一向一揆は一見被支配者による支配階級への抵抗に見えるが、その内容は多くの問題を含んでいて、中にはこの僧侶のように言葉で農民を煽り、自分は被害を被らずに、うまい汁を吸おうとした者も多かったのである。

どうだろうか同じ宗教が名目の一揆、支配階級からすると「暴動」だが、島原の乱と一向一揆の違いを感じてもらえただろうか・・・。