「日本の暴動」・前編

海外から見ると日本がとても不思議に見えることがあると言うが、その1つに「暴動」の少なさがある。
どうして日本人はこんなことまで我慢しているんだ・・・と言う海外の友人は少なくないが、私からすれば暴動を起こしてどうにかなる話か・・・とも思ってしまう。

日本は官僚政治が1600年、封建政治が1000年と続いていることから、自然に半管理体制を「安定した」形と捉える傾向にあり、こうした社会では物を言うと、それに対して責任を負うことが面倒になる。
すなわち半管理体制に国民全体が何らかの関与をしている・・・、例えば自分が行政の批判をしようと思っても、誰か親族にはその関係者がいたり、そう言う立場のものがいたりすることから、発言は控えられる、またバブル経済以降の「金が全て」の傾向は、それまであったイデオロギーの価値観を随分と低下させ、個人主義が経済至上主義と相まった形で横行するようになった。つまり「腹の減ることはしない」民族へと変化してきたことがその要因だろう。

では日本の過去にも暴動が無かったのか・・・と言うと、江戸時代などには頻繁に一揆や打ちこわしが行われているが、暴動と言うものの1つのラインとして「食べられない」ことが、ここでは浮かび上がってくるのではないか、つまり少し乱暴な言い方になるが、過去の日本では「食べられない」と言えば明日からの生活そのものが破綻していたが、現在は苦しいと言っても明日から食べて行けない人の数が少ないから暴動にならない・・・とも言えるように思うのである。

そしてこうした背景を見てみると、貧しさがイデオロギーを活性化している事実もまた見逃せないのではないか・・・、腹いっぱいの人間はものを考えないが、腹が減った人間はいろんなことを考える・・・、その中で「どうして自分が・・・」とか「何故自分が・・・」とか考え始めたときから陳腐ではあっても思想が、また政治が、宗教的なものがその背後に忍び寄り、そしてそれは暴動へと発展していったのではないかと思うのである。

今夜はこうした観点から日本で起こった宗教的騒動、「島原の乱」をみてみようか・・・、ちなみにこの記事を前編としたのは、北陸で起こった一向一揆との対比を想定した為で、同じ騒動であっても前者と後者では背景に潜む宗教的精神性が大きく異なるからだ。

鎖国政策を進めた徳川幕府、その主な目的は封建制度の確立にあり、他国による経済的影響から封建制度が崩壊することを防ぐのが目的だったが、その一方ではキリスト教の問題も何とかしなければならない大きな問題だった。
初期徳川家康はキリスト教を認めないながらも黙認したが、その結果キリスト教信者は数十万人に達し、イエズス会、フランシスコ派、ドミニコ派などが全国に及び、これは各藩の封建的支配に危機感を生じさせ、既存宗教や儒教関係者は宣教活動に領土侵略の意図があると流布し始めた。

またキリスト教の一神的性格からくる他宗教への排他性、それは神社や仏閣などの破棄にまで及んできてしまい、一夫多妻が常であった当事の支配階級にとっては、これを否定され自殺も禁止となれば、それまでの武士道の価値観をも否定されることになっていった・・・、加えてこれが一番大きな要因だろうが、それまで一向一揆などに悩まされ続けてきた支配階級にとって、信者等の団結による一揆が最も恐ろしかったのである。
こうした背景から幕府のキリスト教禁止とその弾圧が始まっていくのだが、この支配階級の恐れは、くしくも「島原の乱」で証明されることとなった。

1637年、この時起こった「島原の乱」は最終的には「徳川幕府」対「天草四郎時貞」が率いる民衆の対立となってはいるが、その当初は島原領主「松倉重政」、天草領主「寺沢堅高」の過酷な領民支配にその原因がある。
したがってこれは一種の百姓一揆だったのだが、この地域に多かったキリスト教信者への弾圧に対する抵抗と結びつき、それで大一揆となった。

1629年から始まった有名な「踏み絵」によるキリスト教迫害は、キリストやマリアの絵や彫刻を踏ませて、信者か否かを調べたものだが、長崎ではこれが正月の年中行事にまでなってきていた。
また島原、天草はもともと地味の低い貧しい土地柄にもかかわらず、両領主は農民に過酷な税を課し、キリスト教信者が多いこの地方の住人に対して、残酷な方法でその信者を処刑して見せしめにしたばかりか、一般農民でも年貢未納などには厳しい制裁を加えていた・・・、そのためこの地域では餓死者、主に子供や女、年寄りたちだったが、彼等が眼前で衰えて死んで行き、自身も食べるものがない状態だった農民の救いは唯一つ、「神」や「マリア様」だけだったが、それすらも見つかれば「死罪」とあらば、もはやこの世に生きる望みなどなかったのである。
またキリスト教信者でなくても、年貢が納められなければ容赦ない取立て、苛酷な仕打ちに苦しんだ一般農民にしてもそうだ、もはや生きる希望などなかったのだ。
これが「島原の乱」の原因である。

従ってこの乱の参加者はキリスト教信者だけではなく、仏教徒の農民もいたのであり、一揆を指導したのは旧領主「小西行長」(キリシタン大名)の遺臣たちだった。
つまり乱を起こさせたのは旧勢力の不満分子、キリスト教弾圧に苦しむ信者、過酷な取立てに苦しむ農民の、三者の利害や目的が一致したことに端を発していたものであり、島原、天草の領主は結果としてその政治的手法で、始めから多くの領民を敵に回していたのだ。

奇跡を行うという16歳の天才少年、「天草四郎時貞」(益田時貞)がこの乱の首領となったのは、集まった民衆にキリスト教信者が多かったこと、またこの天草四郎と言う少年の突出したカリスマ性が、そうさせたものだったと思うが、これに対してコントロールを失った島原、天草の領主に変わって幕府が直接関与を始め、九州の諸大名を動員し、3万7000人の農民たちに対し、12万の大軍で包囲する。

しかし信仰に裏打ちされた農民を攻略するのは容易なことではなく、もはや今生での幸福は棄て、来世で救われることを望む彼等の前には「死」すら恐怖ではなくなっていたのであり、こうした者たちには初めから勝利も敗北もない・・・つまり幕府は神や仏を相手に戦っていかざるを得なかったのである。
幕府総指揮官「板倉重昌」はついに討ち死にしてしまうが、変わって登場した知恵伊豆こと、「松平信綱」は残酷な兵糧攻めを決行・・・、その結果この乱は鎮圧できたが、乱の首謀者、その幹部、端末の農民に至るまで唯1人の裏切り者もなく、乱に関係したものたちは死んでいった。

人にして人にあらず・・・、女子供まで、それも激しい憎しみに満ちた顔ではなく、むしろ刀を持った武士たちを憐れむかのように穏やかな顔で、またあるものは何の抵抗もなく祈りを捧げ、われ先にと切り殺されようとする・・・、こうした者たちが見せた戦闘力と結束は幕府を震撼、いや恐怖に陥れた。

この後幕府は寺請制度を実施する、国民1人1人までどこかの寺院に属させて、これを檀家とするようにし、宗旨人別帳を作成・・・・、キリスト教信者の根絶を図ることになるが、これは国民全体に実施され、その結果この制度は戸籍と同様の効力を持つにいたり、婚姻などでも寺院から檀家であることの証明「寺請証文」がなければ結婚できなくなるのである。
そして幕府の厳しいキリシタン弾圧は続いていくが、九州、特に天草などでは密かにキリスト教を信仰し続ける者があったが、彼等はキリストを抱いたマリアを、観世音菩薩などの姿に形をつくり変えて、像をまつっていたのだが、長い間にその宗教的内容も本来のキリスト教とかなり違ったものになっていったのである。

後編へ続く。

「おーい、誰かいるかー」

昭和のSF界にショート・ショートと言う1つのジャンルを築いた天才、星新一の作品にこんな話がある。

ある日突然、地面に1つの丸い穴が開いているのが見つかり、深そうなので「おーい」とか叫んでみたが反響音が返ってこない、ついで小石を投げてみたが、これもどこまで行っても落ちた音が返ってこない、不思議な穴は底なしだ・・・と言うことになり、初めは遠慮がちに、その内どれだけ棄てても埋まってこないので、人々はどんどんゴミや産業廃棄物を棄てるようになっていき、ついには放射性廃棄物なども棄てられていくようになった。
そしてどこか遠い国のビルの屋上・・・、一人の男性が屋上の空気を吸っていると、空から「おーい」と言う声が聞こえてきて、変だなと思っていたら、今度は小石が飛んできて頭に・・・と言う話だが、怪しい話シリーズ、今夜はこの話に似た事件の記録があるので、紹介してみたいと思う・・・。

1962年1月のことだ・・・。
その夜事件現場付近で寝ていた住民は、夜中過ぎにゴーっと言う竜巻のような音と、まるで鋭い物が空気を切っていくような音で目を覚ましたが、この音はたった1回だけだったので、気にはなったものの、みんなまた眠りについた。

だが翌朝、さすがにあの音は尋常ではなかったと思った近くの農場経営者は、昨夜音がした場所の近くまで行ってみたが、そこで奇妙なものを見つける。
なんと直径50cmほどのきれいな星型の穴が開いていたのだった・・・、その星形はまるでニンジンを金型で切って作ったような鋭さがあり、しかも底は見えず、かなり深そうな様子で、農場経営者は腕を入れてみたが、そのようなことで確認できる深さではなかった。

そこで農場経営者は付近の他の住人にも知らせ、皆で調べてみたが、石を落としてみても一向に底に着いた音はしかった・・・、そればかりかロープの先に石を結んで、更にロープを何本も繋いでたらしてみたが、これもどれだけロープを繋いでもどんどん入っていくだけだった。
つまりこの穴は底なしだったのである。
さすがに恐くなった住人たちは警察に連絡したが、いくら警察でもこんな穴を見たことはなかったし、何の見解もできなかったが、取りあえず長い棒を差し込んでみたものの、結果は住人達のほうが先に分かっていた。

それでは今度はと、長い巻きがある針金をくりだしてみたが、やはり一向に底には行き着かなかった・・・、「何だこの穴は・・・」困り果てた警官たちは本署に連絡・・・、数日経って数人の科学者を交えた調査隊がやってきたが、どれだけの調査をしたのかは不明ではあるものの、いちおうの見解はこうだった・・・。
調査の結果は「地盤沈下現象」・・・、こんなきれいな星型の、しかも深さがどれだけかも測れないほど深い地盤沈下?・・・、住人はもとより、この見解には警察当局も納得はできなかったが、そうこうしていると、今度は軍隊の車がやってきて穴の周囲を広い範囲で立ち入り禁止にしてしまい、中で何かやっている様子だったが、ここまで来ると一般住民は「相当まずいことになってるらしい・・・」と感じたのか、この付近には近寄らなくなり、その話も何となくタブーのような感じになっていった。

暫くして軍隊もこの穴の科学的検証を発表したが、なぜか先の科学者たちの調査発表と同じ「地盤沈下」で、しかも今度は軍隊側でしっかり穴を埋めた・・・とまで発表され、この穴の証拠は無くなってしまったのである。
そしてこうした穴は実は1つではなかった。
同じ晩にホランドとハンプシャーの2つの地点で同じものが発見され、いずれも似たような経緯で最後はイギリス軍が穴を処理してしまっていたが、当初イギリス軍はこの穴をソビエトが打ち上げたスプートニクと関係があるのでは・・・と考えたようだ。

この事件から1年後、非公式の見解ではあるが、この穴の処理を現場指揮したという軍関係者の話を、1人の記者がメモに残していて、そこには穴は確かに底が無く、もしかしたら宇宙から飛んできた何かの生物でもいるのではないか・・・と言う意見が出され、放置しておくと危険だということになり、周囲を深く掘って鋼材を渡し、コンクリートで穴に蓋をするように固めて、その上から土を乗せて周囲と分からなくしたことが記されていたとの事だが、ことの真偽は分かっていない。

現在ではその場所すら明確には分からなくなってしまったらしいが、その内いつか大変なものがこの穴から出てこないことを祈るばかりだ・・・。

「報道に対する最も適切な対応」

かなり前のことだが、いつも遊びに来る某○営放送の記者が、よほど記事がなかったのか、家へ立ち寄り、何か面白い記事がないか・・・と言うので、たまたま少し知り合いだった公共施設の館長に電話したところ、何やらイベントをやっているとの事、さっそく紹介したのだが、さすがに自分も長い間顔を出していないし、記者だけを指し向けて知らん顔と言う訳にもいかず同行したが、このイベントがまた華々しくつまらないイベントで、観客も殆どいない状態だった。

どうする、こんなんで記事を作れるか・・・と尋ねる私に、記者も暫く考えていたが、「仕方ないでしょう、今日はニュースが1本もないんじゃデスクに怒られますから・・・」と言うので、このイベントを2人で無理やり記事に仕立て上げることにした。
まず屋外の庭にいる子供や人に、みんな施設の中へ入ってもらって、イベント展示を見学しているような映像を撮影し、それから館長と、子供、それに主婦が1人いたので、みんなにそれぞれこちらで即興で作ったコメントを渡し、その通りインタビューに答えてもらった。

しかし全員集まっても6人しか人がいないので、施設職員や私までが顔を写さないことを条件にエキストラをやらされたのだが、カメラは常に人が集まった状態を撮影し、夕方のローカルニュースで編集した映像を見ると、大変な大盛況ぶりで映っていた。
程なく昼間の記者から電話がかかり、「いやー、助かりましたよ・・・またこれからもよろしく・・・」などと言うので、こうした手段は何回か使うとばれるから、気をつけるように伝えた。
全く冴えないイベントを大盛況のイベントに作り上げるのは比較的容易だし、よくある手でもある。

しかしこうした場合、面倒なのは協力してもらった人たちだ、みんな何時に放送されるのか聞きたがるが、実際のところニュースは撮影されてもそれが放送されるかどうかは、デスクや報道部長などが裁量権を持っていて、記者ではその場で明確な回答ができない・・・。
それで後からお知らせする・・・と言うことで連絡先を教えてもらい、それに電話しなければならなくなる。
おそらくビデオ撮影でもして、自分や子供が映っている場面を録画する為だろうが、こうしたことをしながら、私はある場面を思い出す・・・。

1985年8月12日、午前6時56分、その事故は起こった・・・。
ボーイング747SR、日本航空123便、東京の羽田から大阪伊丹へ向かって飛行中の、このジャンボジェットが群馬県多野郡上野村の高天原山に激突したのである。
乗員15名、乗客509名のうち、生存者は僅か4名のこの悲惨な事故は、墜落までに少しだが時間があり、その間に遺書をしたためた人が多く存在した・・・、また殆どの遺体はばらばらの肉片になってしまい、その後の身元確認でも多くの大学研究機関の協力を必要とした。
こうした背景とその事故の大きさから遺体収容、および生存者の救出には自衛隊の出動が求められ、この中で当時11歳の少女はあのような事故にもかかわらず、殆どかすり傷程度の状態で救出され、自衛隊員がヘリコプターから垂らされたロープを使って、少女を救出するシーンは感動的ですらあった。

だが乗員、乗客含めて524名、このうち生存していた4名は全て女性だった。
それも客室乗務員や先の少女などだった為、不謹慎な話だが、芸能界、出版界では彼女たちの誰かが体験手記でも書かないか、また芸能界デビューでも・・・と考えた者が多く存在していた。
そのため連日彼女たちは同情したような顔をした、リポーターや記者たちに追い回されるようになり、ことに映像でその救出シーンが全国放送された少女については、そのルックスや年齢の若さから、そうした期待が高まっていた。

しかし、この少女はこうしたマスコミの態度に「報道のおじさんたちへ・・」と言うコメントを出し、明確にマスコミ報道を拒否した・・・、こうした態度に習ったのだろう、他の生存者たちもそれから全くテレビでは報道されなくなった。
私はこの少女の姿、その表情を今でも忘れることができない。
テレビの取材にこれほど「嫌悪」の表情を表す人間はかつていなかった・・・、それに彼女には影があった・・・、そう当時大スターだった山口百恵のようなハイレベルな「影」があり、おそらく体験手記でも書いて社会の同情を集めれば、大スターも夢ではなかっただろうし、当時そうした自身の不幸な身の上を元に、スターの座に駆け上がろうとする者も少なくなかった・・・また彼女にそれを望んでいた者も大勢いた。

だが彼女の態度は一応こうした事故だし遠慮して・・・ではなく報道に対する憎しみのようなものすら感じた・・・実に立派だった。
おそらく彼女はしっかり人間が見えていたのだろう・・・、報道と言う虚飾に満ちた世界の虚飾まみれの言葉、その態度、そして不幸な事故を取材する同情者の仮面の下に隠された醜い心無さ・・・多くの人が死に、自身の親まで事故で亡くした彼女に、心配そうに近寄ってくる汚い大人の姿が、手に取るように分かったのではないだろうか。

また凄いのは彼女の両親だ・・・、僅か11歳の少女に、こうした一言をしっかり言えるよう教育したその親の偉大さ、やろうとすれば出来ただろう華やかな暮らしに目を曇らせることなく、道理を持ってNOと言える彼女の人間的崇高さ・・・、それをそうあらしめた親の偉大さを感じるのであり、本来一般の人が報道に対してとる態度としては、彼女ほど適切な対応をしたものは他にいなかった。

確かあの少女の夢は看護士さんだったと思うが・・・今頃どこかできっと人の命を沢山救う仕事で頑張っているだろう・・・いや彼女にはそう信じさせてくれるものがあった。

「万民が平和を称える都の夢」

京都で夕飯時期まで遊んでいると、「夕飯でもどうですか・・・」と言われるが、これを真に受けて「それでは・・・」などと言ってはいけない、この言葉は「夕飯時期まで人の家にいるとは何と礼儀を知らない奴だ・・・そろそろ気を利かせて帰れ・・・」と言っているのである。
「おっと・・・思わぬ長居をしてしまいました、そろそろおいとま致します」が礼儀らしい・・・。

さて今夜はその京都が都としてどう言った歴史を辿ったのか見てみようか・・・。
781年に即位した桓武天皇は、それまで「道鏡」以後著しくなってなっていた仏教の政治介入を嫌い、仏教界を大きく粛清し、その影響の大きい平城京から長岡京への遷都をはかるが、784年に始まった遷都は翌年785年、遷都に反対する大友、佐伯、多治比氏ら・・・首謀者はこの前月に死去していた大伴家持とも言われているが、彼等の謀略により、造営長官の藤原種継が暗殺され、多難な船出を迎えた。

またこうして遅れに遅れた長岡京遷都はその後、井上皇后が天皇を呪い殺そうとしたとされる事件、これは桓武天皇を擁立しようとした藤原百川らの陰謀説が有力だが、この事件で皇后と他戸皇太子が廃され、その後2人とも獄死してしまったことから始まる怨霊騒動に桓武天皇が悩まされ、788年には夫人の藤原旅子、789年皇太后の高野新笠、790年皇后藤原乙牟漏が相次いで死去するにいたり、その怨霊に対する恐怖は頂点に達し、ついに桓武天皇は長岡京を諦め、和気清麻呂の建議を受け入れ、現在の京都、平安京に遷都を変更するのである。
桓武天皇はよほど仏教支配体制を嫌ったらしく、平城京からの寺院の移転は一切禁止していて、仏教と政治を完全に切り離してしまう。

しかしもともと長岡京でもその造営は捗らず、784年に占定が始まっていながら、791年の段階でもまだ平城京の諸門を長岡京へ移す命令を出しているような有様・・・、35万人の百姓を動員した結果がこれだった訳で、794年、怨霊におびえ平安京遷都が始まっても、この造営は大幅に長引いていき、結局初期の平安京は完成を待たずに805年に一応打ち切られる。

このときの平安京は平城京より少し広い程度で、平城京の外京を除けば、全く大差のないものだった。
東西4・2Km、南北4・95Km、大内裏から84mの朱雀大路を中心に左京、右京に別れ、各京は9条4坊からなり、1坊は4保16町、1町は4行8門の32戸主からなっていたが、都城としての外郭である羅城は完成しておらず、72坊・300保・1216町と言われた京が果たしてどこまでできていたかは疑問で、未完の都だった。

長岡京に続いて営まれた平安京が、それまでのように地名による京名を持たず、平安京とされたのは、京にやってきた民衆が異口同音に平安京と呼んだからであり、その思いの根底には万民が平和をたたえるように・・・と言う思いがあったと言われている。
805年に一度造営が中止された平安京だが、819年の記録では京中を見ても閑地は少なかったことが分かるし、862年にもなると朱雀大路には昼は牛馬が行きかい、夜は盗賊のたむろ、横行した府であった・・・となっている。
つまり平安京は初期の頃から、人は増えたがどこかで秩序が保たれない、荒廃した感じがあったようだ。

そしてこれは982年、慶滋保胤(よししげの・やすたね)が記した「池亭記」からだが、低湿地帯の右京はもはや京ではなく、この頃から白昼の京に強盗が横行するようになってきた・・・、つまり摂関政治は左京で行われていたことを示しているが、969年、「安和の変」で大宰員外帥に左遷された「源高明」の四条大宮の東北にあった邸宅、これなどは左遷後3日目にして殆ど全焼し、「誠に是れ象外の勝地なり」と言われた庭も荒れ果てたと記されている。

やがて貴族の政治が、東国の武者たちによって脅かされてくる平安末期になると、都は一層荒れ果ててくる・・・、1156年「保元の乱」、1159年「平治の乱」が京を舞台に繰り広げられ、1177年には京の大火があり、1180年には「大風」が有って多大な被害を出していたが、それとともに反平氏勢力が勢いを増し、その年の6月には福原遷都が始まって、平安京は廃墟に近いところまで荒廃していくのだった。

中世に入ると平安京は政治都市であるとともに、中世最大の商業都市としての性格が強くなっていたが、しかしこうして性格を変えながらでも、生き続けてきた平安京もようやく終末の時期を迎える・・・、公家の経済的基盤の最後のよりどころだった荘園が崩壊していく中で、1467年から11年に及ぶ「応仁の乱」が起こり、平安京は劫火に焼かれ、燃え尽きてしまったのである。

平安京がその政治的中心であった時期は、我々が思うほど長いものではなく、その成立時期から決して安定したものではなかった。常に不安定かつ、荒廃した時期の方が長い。
「応仁の乱」以降戦国時代が始まり、やがて安土桃山時代、江戸時代と続き、結局都として政治が行われた時期は500年ほど・・・、しかし我々が「日本」を思うとき、どこかで京都、平安京を意識するのではないか、どこかで心のよりどころとなっているのではないかと思う、そしてこれこそが「京都」の意義ではないだろうか。

怨霊に怯え、造営が始まった当初からうまく行かなかった平安京・・・しかしどうだ、万民が平和を称える都の夢は、我々の心の中で見事に花開いているように思うが・・・。

「生物絶滅の歴史」

太陽が生まれて間もない頃、その明るさは今の太陽より暗かったのでは・・・と考えられているが、そう今の太陽の70%くらいの明るさだったようで、その後地質時代を通じて少しずつ明るさを増していったと推測され、こうしたことから温室効果がある二酸化炭素の量が、もし現在の地球に存在する量と同じなら、確実に海は凍結していることになる。
太陽光が地球に与える影響は大きく、数%減少しただけで海は全凍結してしまう。
しかし地質学的検証ではこの38億年の間に海が完全凍結した事実が殆どなく、太陽が暗い太陽から明るい太陽へと変化してきた経緯を考えると、海が完全凍結しなかったと言うのは不自然であり、このことを「暗い太陽パラドックス」と言う。

ではこのパラドックス(矛盾)をどう考えたらいいのか・・・、二酸化炭素の量が現在より大幅に多く、それによって地球に温室効果があり、太陽光が少なくても海が完全凍結しなかったのでは・・・と考えられたが、こうした説も現在では地球の初期大気成分がメタンであり、温室効果がメタンガスによって得られていたとされるようになってきている。
この理論からすれば、メタンから二酸化炭素に切り替わったとされる時期が出てくる訳で、約23億年前、多分地球は陸も海も1回完全凍結していたことになる。
そしてこの時地球に発生していた生命は細菌類だったと思われるが、この状況を細菌類は生き抜いて現在の生態系に至っているのか、絶滅して新しい生命の進化が始まったのか、それとも細菌類はそのまま生き抜いて、凍結期間が終わったら別進化系の生物が発生したのかはわかっていない。

また原始の地球大気が入れ替わってきた時期、それまであった二酸化炭素を吸収して光合成を行うラン藻類などは光合成により酸素を放出するようになる。
これにより少しずつだが確実に大気や海の酸素濃度は高まり、結果として二酸化炭素を吸収して生命を維持していた生物にとっては緩やかな絶滅があったと考えられる。
地球大気の変化は、二酸化炭素呼吸の生物から酸素呼吸の生物への入れ替わりになり、空気中の酸素はオゾン層を形成、太陽の紫外線を除去した環境が生まれ、ここから時間をかけて水中生物から陸上生物の時代が始まっていった。

カンブリア紀、今から5億7000万年前だが、脊椎を獲得した生物と脊椎がない無脊椎動植物の区分けがこの辺から始まり、それまで海草やクラゲのような生物しかいなかった海に、魚類や三葉虫などの生物が発生してくるが、この3000万年前からそのまた2億年前、つまり今から8億年から6億年前には大規模な地球の寒冷化があり、この時にもそれまでの生物は大量絶滅しているはずである。

さらに今から2億6000万年前、地質的な年代区分では二畳紀(ペルム紀)の後期と言うことになるが、このときは地球上の全生物の70%が失われたとされていて、ここから1000万年後の2億5000万年前には実に全生物の90%が、その後 二畳紀と三畳紀の間、2億2500万年前にも全生物の90%が死滅したことが、調査によって明らかになってきている。
これらの期間は2段階、3段階で生物の絶滅が進んでいて、その原因はおそらく地球規模で始まった大規模火山活動によるものと推測されている。

中国南部、コロンビア、シベリア、アフリカ、ブラジルなど広く分布する火成岩の年代が、これらの生物絶滅の時期と重なることから、こうした考えが唱えられるようになったのだが、火山活動によって海水の酸素が急激に失われる現象が起こったようで、「海洋超酸素欠乏現象」と言う名前で仮説が立てられているが、宇宙からやってきた天体との衝突を唱える者も一部には存在し、オーストラリア北西部の海底に2億5000万年前の衝突構造が発見されたことから、一時議論になったが、天体の衝突説には疑問も残っている。

このときの生物絶滅期をP/T境界と言い、二畳紀と三畳紀の境界を指しているが、この生物絶滅期に三葉虫やフズリナなど、カンブリア紀に発生した生物は絶滅した。
シダ類などの陸上植物、肺魚、昆虫や爬虫類なども3000万年の間に3段階で大部分が死滅していったのである。
そして中生代白亜紀と新生代第三紀の境界にあたる今から6500万年前、このときも地球の生物の90%が死滅している。
恐竜や2億5000万年前の絶滅を生き抜いたアンモナイトまでがこの時期絶滅し、哺乳類の多くも死滅した。

このときの原因は小惑星や彗星の衝突であったとされているが、イタリアのアルパレッツ達が白亜紀と第三紀の境界の地質を調べた結果、この地質に通常より高い濃度でイリジウムが含まれていたことから小惑星衝突説は有力視され、ユカタン半島に直径100Kmの衝突構造を形成した小惑星の衝突が、この時期に一致していることから、生物絶滅の要因とされてきた。
しかし近年生物絶滅とこのユカタン半島の小惑星衝突は、30万年のずれがあることが分かってきている。

ユカタン半島の小惑星衝突は、生物絶滅の30万年後のことだった。
また恐竜の絶滅に関しては、この時期の少し前から植物が裸子植物から被子植物への変化を示していて、これは簡略に言うと「木」から「草花」への移行であり、これによってそれまで大型の草食恐竜達の食物だった「木」がなくなり、草花では高さが低く、食べることができずに草食恐竜が死滅、それを捕食していた肉食恐竜も死滅したのではないか・・・と言う説もある。
これによると、植物は裸子植物では恐竜に食べられてしまい、子孫を残せないことから、自身を草や花のような被子植物へと変化させた、つまり種の存亡を賭けて恐竜達に抵抗したことがきっかけで恐竜が滅んだことになるが、何とも生命の機微を感じる説である。

かろうじて人類の祖先が発生してきた頃、今から400万年前から今日まで、たったこれだけの期間でも氷河期が5回以上あって、そのたびに少しずつ生物は変遷をとげている・・・、またこれまでに地球で確認されている衝突構造、つまり小惑星の衝突痕は150個以上・・・つまり150回は小惑星が地球にぶつかっていて、その内何回かは地球生物の殆どが死滅したこともあっただろう。

だが、こうして見ると大量絶滅がある度に、次は破格の多様性を持って生物は繁栄を極めている。
生物にとって大きな試練はまた大きな繁栄ももたらしている・・・、だから滅びることは何も恐いことではなく、次に興る生物の為の道筋ともなっているのであり、私たちもまた連続する生命の流れの一端なのであり、これをして生物は永遠の生命を持っているとも言えるのである。

だから個々の生物はどんなことがあっても生きることを諦めてはいけない。
どんなに辛くても苦しくても、生きよ、生きよ・・・、この地球に生命が生まれてから38億年、今この地上に存在する全ての生物は、幾多の絶滅の危機をくぐり抜けてきた誇り高き「生命」の末裔なのだから・・・・。