「民主主義の行方」

一般に西欧民主主義には3つの発展段階があると思ったほうが良いだろう・・・、第1の段階は19世紀の中頃までで、言わば「お金持ち仲良しクラブ・民主主義」とでも名づけようか、この段階の民主主義の特徴は議会の選挙権が資産、租税額、教育程度などによって制限されている、つまり制限選挙制の下での民主主義である。

この場合民主主義と言っても一部のお金持ちや有力者がそれを享受できるのであって、政治の運営はもっぱら教養と財産を持つ名家(上層の商業ブルジョアジー、知識人、地主層)などにそれが委ねられていた・・・、言い換えればこの段階では小ブルジョアジーや労働者などの社会的下層・・・大衆が政治に主体的に参加する道は閉ざされていた。

これに対して19世紀末になると、各国で普通選挙が普及してくるとともに、西欧民主主義は「お金持ち仲良しクラブ」の段階からいわゆる大衆民主主義の段階・・・第2段階へと転換し始め、この新しい段階においては社会の下層大衆が政治に参加する道が制度的にも開かれていくのである。

そして20世紀、第2次世界大戦後の民主主義・・・学説的にはこうした区分はないが、これを第3段階として、「人気取り民主主義」とでも呼ぼうか、いわゆる「過ぎた民主主義」が発展してきたが、これは第2段階において発生してきた政党の大衆化によって、その兆しが見え隠れしていたものが、決定的になった状態を区分したものだ。

民主主義がそれまでの「お金持ちクラブ」から大衆化して行くとともに、政治にさまざまな新しい傾向が目立ってきたが、その1つは政党のあり方である・・・、「お金持ちクラブ」の段階においては政党は有力者たちだけによって構成され、しかも組織的な結合の弱い文字通りクラブのような存在であったのに対して、大衆民主主義の到来によって、政党は広く社会の下層大衆を党員として包摂し、その組織もきわめて大きく発達した大衆政党になる。

その代表的な例がドイツの社会民主党で、同党は第1次世界大戦勃発のころには100万の党員を擁し、ピラミッド型の膨大な党組織を持っていた。
このような政党のあり方の変化は、議会政治そのもののあり方にも大きな影響を及ぼし、かつて議員は自分自身の判断に基づき、比較的自由に議場で発言したり、投票することができたが、組織の発達した大衆政党のもとでは、個々の議員の発言や行動は、その党の方針によって厳しく律せられることとなり、もしそれに違反すれば党の処罰を受けることになる・・・、つまり「お金持ち仲良しクラブ」の段階では政治の単位が個人だったものが、大衆民主主義の段階では政治の単位が政党となったわけである。

その他、労働組合や企業家連盟、農民団体などのように、社会の各層がそれぞれの利益に応じて利益団体を結成し、政党や政府に働きかけるようになるのも大衆民主主義段階の特徴の1つと言えるだろう。

だがこの大衆民主主義は弱い部分がある。
それは日本の犬飼毅内閣(1931年)の例をみれば分かりやすいだろう、彼はそれまで国際社会との協調外交をその方針としていたが、総理の椅子欲しさに大衆や軍部に迎合し、それまでの方針を転換してしまうのだ・・・、その結果がどうなったかと言うと、同じ日本軍の中にあった統制派と皇道派の派閥争いに巻き込まれ、統制派に反発した青年将校が5・15事件を起こし、この犬養首相は射殺され、ついには日本の政党内閣は終焉を迎えてしまったのだった。

総理の椅子と自身の政治的信条を取引した犬養は、政党・・・つまり支持団体に迎合したのであり、その結果が政党政治の終わりに繋がってしまった・・・、いわゆる軍部独裁政権の道へと繋がって行った。
また政党政治は暴力に対して弱い・・・、これは団体であるが故の責任の分散によるもので、自分の意見に対する覚悟が薄いことに起因している。

そして戦後、日本だけではなく、世界は経済的発展を遂げ、その情報伝達手段も破格に早くなった・・・、また豊かさは更なる富を求めてさまよい、人々は政党を通して政治を自身の利益誘導手段として活用するようになったが、この段階でも日本の民主主義はまだ「お金持ち仲良しクラブ」の要素を持っていて、それは長い封建制度が形骸とは言え、まだ形を成していたからだが、政治家は2世、3世の世襲が多く、また政治家になろうと志す者は、依然として地方の有力者であるパターンがあったからだ。

これがバブルを挟んで1990年初頭、自民党の衆議院総選挙の敗北を機に、一挙に世論に敏感なものになっていき、形として民衆の言いなりのような形になっていったが、ここで世論と言うものに対する過剰な意識は、相対的にマスコミの影響力を増長される結果とも繋がって、それを政府が利権を盾に利用していく図式が出来上がった。

これがインターネットの普及とともに、次第に民主主義が過剰に個人的な意見に左右されることとなり、マスコミの影響力は次第に低下し映像中心主義へと変節、インターネット社会がついにマスメディアを追い越すに至って、政党や政治家は「世論」と言うものにびくびくしながら政党、政治活動を行わなければならなくなった。

こうした民主主義を「民衆主義」と言うのであり、すなわち政治家はその政治的能力はともかく、民衆受けしなければならなくなり、ここに国家を概念としたイデオロギーを持つ政党政治は消滅し、そこでは民衆の「個人」は政治家に潔白、品行方正であることを求めるが、その政治的評価の基準が「人間性」と言う事態を迎えるのである。

民衆と政党は民主主義における車輪の両輪に相当するもので、どちらか片方が力を増すとその意義は薄れ、政治は誤った方向へと向かってしまう。
また総理総裁と言う椅子は、時に政党や民主主義そのものを、その椅子と取引させるほど、魅力のあるものだと言うことも憶えておくと良いだろう。

最後に・・・潔白、性格の良さと政治的手腕は別のものだ・・・。

「生命の単位」

生物と言うものを究極的に追い詰めていくと、それは細胞と言う単位にまで行き着くが、この細胞を探っていくと、非常に哲学的な概念が発生してくる。
今夜は一つ細胞から人間を追いかけてみようか・・・。

細胞を始めて顕微鏡で観察したのは17世紀のフックだが、1838年シュライデンは細胞が植物の生命の単位であると主張・・・、翌年シュパンが(ショパンではない)それを動物にまで拡大し、こうして細胞がを自立的な生命単位として認められるようになった・・・つまり理論として確率するのは、19世紀のことだった。

だが細胞が細胞分裂によって増殖することが明らかになるのは、更に多くの研究者たちの研究を必要とし、その中でも余りにも有名な「細胞は細胞から」の言葉はビルヒョウの標語だが、生命単位イコール細胞説の登場によって、人体の構造についての解釈が激変していったのである。

まず「個体発生」の概念だが、精子と卵子が受精し、次に単一細胞である受精卵が分裂をしていく過程であることが分かってきた。
これ以前は個体発生について、前成説と後成説に分かれていて、大激論になっていたのだが、前成説は完成された身体の構造が精子や卵子の中にあらかじめ存在する・・・と言うものであり、後成説は、胚の単純な構造が完成体の複雑な構造へと発展していく・・・と言うものだった、そして細胞説は前成説を否定する結果となったのである。

細胞説とそれに基づく個体発生の概念は人体の男女差の概念においても影響を与え、すなわち男性と女性の身体的構造は基本的に異なってはいない・・・、個体発生の僅かな違いによるものでしかないことが認識されてきた。
男女差が最も顕著な生殖器であっても、個体発生の途中までは、男性器の原基と女性器の原基が両方とも作られ、その後に男女どちらかに向かって分化し始める・・・。
さらに発生過程の違いは染色体の構造の違いによって生じるが、人間の染色体は46本あり、その内の44本は男女が共有して持つ常染色体で、2本の染色体が男女の違いを発生させる染色体であり、男の染色体はXとY、女の染色体はXとX・・・男と女の差はたったこれだけのことなのである。

また個体発生における、「個」と他の識別についても面白い概念がある。
身体を細菌やウィルスから守る免疫反応だが、細胞が表面に持っている「組織適合抗原」と呼ばれる物質を利用して、異物の抗原を認識していることが分かってきていて、免疫系の働きの基本は自己と非自己の物質を識別することにあることから、リンパ球は抗原提示細胞の表面に、異物の抗原と同時に自分の組織適合抗原を認識して、始めて抗体を生産し始めるので、組織適合抗原は免疫系にとって不可欠の条件になっている。

免疫系は他人の組織適合抗原も、勿論排除し、細菌などの異物は貪食細胞に取り込まれ、その細胞が持つ組織適合抗原と一緒に提示され、異物として認識される。
分かりにくかったかも知れないが、免疫機能は自分と言うものの見本と、それ以外の他を同時に出して、比べて「他」を排除する為に必要な措置を講じているということだ。

個人の境界として哲学的な自我はあっても、それの明確な区別は人間には見えないし、なかなか理解できない・・・、しかし現代医学では自身の体がそれを明確に区別して、他を排除している・・・、すなわち自己と他は、既に遺伝子によって支配されるものとなっているのである。

この記事に

「黒いストッキングの女」

1980年代、ある日のポーランド、ワルシャワ。
この数年前に旅したときはソビエト(現在のロシア)も、このポーランドもひどいものだった。
レストランがあって、やっと入ることができても、1時間以上待っても誰も出てこない、こちらから呼びに行って始めてウェートレスが出てくるが、そのメニューは沢山あっても作れるのは1品しかないなど当たり前、ホテルの部屋は、これは安かったからかも知れないが、小さな電燈のスイッチは手で閉めたり緩めたりの形式だった。

だが、この2度目のワルシャワでは少しどころか大変な変貌ぶりで、それもホテルや一流レストランで見かけるのは、多くのネクタイをした日本人の姿だった。
みな、同じ日本人だと思えば陽気にグラスを掲げ、それに応えるようにあちこちで酒のグラスが掲げられていた。

レストランでのことだったが、たまたま近くにいた会社役員と言う、50代ぐらいの日本人男性が私に話しかけてきて、「今夜の相手はいるのか・・・」と言ったが、はじめ何のことだか分からなかった私は、その内、この男性がサウジアラビアから女を買いに、ワルシャワに来ていることが分かり、ついでにこの会社役員の武勇伝を聞かされることになった。

「150ドルで3人とやった・・・、本当にワルシャワは良いな・・」
彼はワルシャワ女性が1人100ドルだと言うのを、「まけろ、まけろ」といい続け、ついに70ドルまで下げさせたが、3人で200ドル・・・つまり3人買ってくれと言うわけである・・・、3人は要らない、1人でいい・・・の押し問答が続き、結局3人を150ドルで買うことになった・・・と言うのだ。
全くどう言う体力をしているのか理解に苦しむが、彼はホテルのロビーで延々女性たちと交渉を続け、その夜は3人を相手にしたらしかった。

私はこの時代の日本人が一番嫌いだった。
金さえあれば何でもできる、いや何をしても良い・・・そう思っている、何が悪いことで何が良いことなのかを見失っていた時期だと思う。
だからこうしてあぶれている夜の女たちは、仕事がなくなるよりは・・・と思って自分を安く売ってしまっていたのだが、金をもっていて、なおかつこうした女性たちを安く買おうという、そう言う精神が許せなかった。

この時代ワルシャワでは150ドルが大金だったことは確かだ、1ドルが約50ズロッチ・・・これが闇のドルレートだと更にドルが高かっただろうし、日本円でも1ズロッチが5円ほど・・・、の計算からすると彼女たちは一晩で150万ズロッチを稼いでいたことになるが、これはこの頃のワルシャワの労働者たちの年収に相当する額面だ。
こうした背景から、ワルシャワでは一般家庭の女の子や、それまで普通の暮らしをしていた女性までが「夜の女」になって行き、挙句の果ては需要があったのか、幼い少女までが男の遊び道具となっていたのである。

また当時の日本は石油関連の事業を伸ばしていたから、商社や金融、一般大手企業も中東へ社員を派遣しているケースが多かったが、戒律の厳しいイスラム社会では到底「女」など調達できるものではなく、他人の女房を長く眺めていただけで罰せられる場合もある訳で、こうしたことから派遣されている企業の社員たちは、当初フランス・パリなどで「女」を調達していた。

だがこの時代、パリやイタリアでも「夜の女」と言えば、一晩の稼ぎが普通の職業労働賃金の2.3日分・・・つまり余り面白くない職業であることから、一般的には危険な女が従事していた・・・、薬物中毒、アルコール中毒、生活破綻者などの女性が多く、金を盗まれる、背後で仕切っている暴力組織とのトラブルなど、日本企業の社員がいざこざに巻き込まれるケースも多かった。

それゆえ社員の安全性を考えて、企業はその慰安と称するものを、安くて一般家庭の女性が多いワルシャワに求めていたケースがあった・・・、つまり企業が推薦して女はワルシャワで・・・とやっていたのである。
だからワルシャワを歩いていれば若い女からよく声をかけられ、みな怪しげな日本語が喋れる訳だ。
この頃聞いた話だったが、彼女達のようなワルシャワの女たちの顧客リストには、大量の日本人の名刺があったと言われている。
そして日本人が好むのが、黒いストッキングをはいた女で、白も人気があって、ワンピース姿が隠れたアイテムだったらしい。

くだんの会社役員は嬉しそうに話を続ける。
女と寝るときは、こちらへ(ワルシャワ)きた時に交換した、他の日本人の名刺を使って寝るのが流行ってるんですよ・・・、本でもそう書かれてましたからね・・・。

私は本当は心のどこかで、今日の日本の窮状を妥当だとしている部分がある・・・どこかで日本を憎んでいる・・・それはこうしたことを見て来たからかも知れない。
「こんなことをして・・・いつか滅んでしまえ」と何度も思ったことがあった。

始めてワルシャワへ旅したとき、貧しかったが普通の女の子、それもおそらく10代の女の子が100ドルで自分を買ってくれ・・・と言うようなことはなかった。
ホテルにはそれらしき女性もいたが、かなりの年齢で、しかも数は少なかった。

経済的に貧しい国ではまともに働いても大した金は稼げないが、そうした地域へ外貨が入ってくると、女の値段は国際的に何百倍、何千倍と言う格差がないため、女にかかわる産業が一番稼ぎが良くなり、そうした世界へどんどん人が引き込まれていく・・・、やがてその国の経済が発展してこうした女を売る価格の国際的格差がなくなると、自然にその国から女を売る仕事に従事する者が少なくなる。
これは一つの経済的原理であるかも知れない・・・、またこうしたことがなければ、その国の人たちが暮らしていけないのも事実だろう。
だったら、せめて金を持っているなら女の子を「値切るな!」

私もホテルのロビーで2人の女の子から声をかけられた・・・、2人とも20代前半くらいだったと思うが、「金がない」と言って断った。
少し不思議そうな顔をしたが、次の瞬間にはニコッ笑ってお辞儀し、別の日本人男性のところへ移っていった。
彼女たちのあの明るさがワルシャワの唯一の救いだったか・・・外はワルシャワらしい冷たい雨が降っていて、彼女たちもまた黒いストッキングをはいていた。

「女の確執」

ある雪の日、部屋を閉め切って物語りをしていると、一条天皇のお后の一人、定子は清少納言にこう言う・・・。
「少納言よ、香炉峯(こうろほう)の雪はいかならん」
これを聞いた清少納言は、さっと戸を開け、御簾(みす)をくるくると巻き上げ、雪景色を定子にご覧にいれる・・・、と言っても今の時代では何のことだか・・・と言う人も多いだろうが、これは「白楽天」と言う中国の詩人が作った漢詩の中の一文・・・、「香炉峯の雪は簾を撥て見る」(こうろほうの雪はすだれをかかげてみる)と言う一節を覚えていた清少納言が、さっと気転を利かせて、簾を上げて見せたのである。

なんとも頭の回転が速く粋な所作だが、こうした少納言を周囲の女性たちは感心して見ている・・・、自分たちもその漢詩は知らない訳ではなかったが、とっさの状況にそこまでは思いつかなかった・・・と。
「枕草子」にはこうした少納言の自慢話が随所に出てくるが、確かに彼女は物知りで、中国古典詩などは男性はともかく、女性が知っていることなど皆無の時代に、しっかりそうした知識を持ち、その範囲は広く、未翻訳の書籍も相当読み込んでいる形跡が伺える・・・、まごう事なき才女である。

だが、この少納言をちまちまとこき下ろしている女、こちらも才女だが・・・それが紫式部だ。
彼女の博学ぶりはつとに有名で、子供の頃父が兄に漢学を教えているそばで聞いていた式部は、兄よりも物覚えがよく、「この子が男だったら・・・」と父が嘆いたと言われるほどだ・・・、きっと少納言と比べても何ら遜色の無いものだっただろう。

だが、清少納言と紫式部・・・同じ宮廷才女と呼ばれながら、両者の性格は全く正反対、例えて言うなら少納言は「雑学王」的な面があり、そつがなくて利発、多少芝居がかっていても平気でそれらしい行動の取れる女、自己主張の強い女だったが、式部はどちらかと言うと、深い理解に重きを置いているようなところがある。
合衆国大統領の名前は誰・・・と聞かれてすぐにその名前が言えるのが少納言なら、合衆国が日本に及ぼす影響は・・・と聞かれて、これにじっくり回答できるのが式部であり、式部は薄っぺらな物知りを軽蔑していた。

だから少納言のような少し背伸びをしてでも・・・の物知りが大嫌いだったらしく、「紫式部日記」では少納言をこのようにこき下ろしている。
「清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける(はべりける)ひと。さばかりさかしだち、真字書きちらして侍るほども、よく見れば、まだいとたへぬことおほかり」
(清少納言は高慢ちきで、はなもちならない女だ、偉そうに利口ぶって漢字などを書き散らしてはいるが、よく見れば、その理解の程は話しにならない程度だ・・・)とかなり辛辣だ。

紫式部の少納言批判は延々続き「なんでも自分こそが人と違うのだと思って自慢している人は後々見劣りするものだ」やら「やたら風流を気取っている者は将来絶対にろくな目に合わない」など言いたい放題だ。
まあ、そう言われてみれば少納言には確かにそうした感じはつきまとう・・・、「枕草子」を読むと、自分がいかに博学かを自慢するような話、彼女の気の利いた行動に対して貴族たちが驚嘆したと言う話が、随所に出てきて偉そうではある。

だが一子を亡くし、夫とも死別していた紫式部は性格上、どうしてもこうした見え見えの行動ができず、一条天皇のもう1人のお后、彰子(しょうし)に使えていたが、言ってみれば彰子の家庭教師のようなもので、そうした立場にありながらも普段は何の知識も無い女を装い、誰もいないところでそっと彰子に必要なことを教えていたようだ。
このように奥ゆかしい式部・・・彼女にとって一番許せない女が、お茶目な清少納言だったのかも知れない。

また少納言の漢文の理解度だが、あの程度か・・・と言う式部の意見もあながち間違ってはいない・・・、「香炉峯の雪は」で真っ先に簾を巻き上げる気転は、所詮そこまでの感があり、式部の漢文に対する理解度は更に深いところにある。
「源氏物語」・・・この不朽の名作の根底には式部の漢文や仏教哲学の大変な知識が横たわっていて、ちょっとした言葉の言い回わしの中にも、そうした知識が散りばめられているが、式部の場合それですらもほんの余興程度のことであり、本質としての深さがある。

「源氏」の底辺を流れるものは「無常観」であるに違いない・・・、華やかな王朝絵巻ではありながら、そこに出てくる人物たち一人一人の心はみな陰鬱であり、決して華々しいハッピーエンドなど有り得ないのである。
どうしてこうも・・・と思うのは私だけだろうか・・・、何故だろう・・・、理由は式部にある、この世には永遠の幸せや繁栄など絶対に存在しない、式部の根底に流れるこうした「無常観」が「源氏」そのものだからである。

この時代の貴族社会では、さまざまな外国文化が取り入れられていったが、こうした中でも仏教の真理を追究することによって見えてくる「無常観」、これが当時とても流行していた・・・、そして紫式部は女性でありながらそれを理解し、そこから「源氏物語」を書き上げたのだろう。

こうして考えてみると、確かに清少納言より紫式部の方が、作品としての完成度は高い・・・が、どうだろう紫式部にはどこかに湿度が感じられ、文中にもあるような手厳しい少納言批判である。
今ひとつ男の目からは「嫌な女」のような気がしないでもないし、結果として式部が少納言にいだいていたものは「女の嫉妬」だったようにも思えるのだ・・・、謙虚に振舞いながらも、人は批判する・・・もし私がどちらかを彼女にしなければならない、と言う状況だったら、多少はなもちならない女でも清少納言を選ぶような気がするが、こんな思い上がりも甚だしい男には、少納言、式部のどちらからも肘てつを食らうことになるか・・・。

この2人の作品の優劣は難しい・・・例えて言うなら紫式部が「絵画」、清少納言が「アニメ」の作品であり、この2つを同列基準で判断すること自体が、そもそもの間違いかも知れない。
そして女の戦いに男が口を出すと、ろくなことが無い・・・。

「終戦詔書」・2

昭和20年(1945年)7月16日、実はこの日、世界で始めてアメリカが原子爆弾の実験に成功した日だが、この翌日から開催されたポツダム会談は、事実上日本をどう処理するか、つまり戦争を終える機会を失っている日本に対して、どのような方法で降伏を宣言するか、またその後の世界をどうするかが決められたが、ここで決定したことは日本に対する無条件降伏の通告であり、このことは宣言として発表された。
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だが事実上戦争を終結させる為に首相に就任したはずの鈴木貫太郎(すずき・かんたろう)以下、軍部はこれを無視すると言う子供のような反応しか示すことが出来なかった。
そして8月6日、広島に原爆が投下され、ここに人類は始めて原子力による破壊の凄まじさを目の当たりにすることになり、同年8月9日には長崎にもこの地獄絵図がくりひろげられてしまう。
これに慌てた日本政府は8月10日、天皇の地位を保全することを条件に、ポツダム宣言の受諾を連合国側に打診するが、無条件降伏の回答はイエスかノーでしかないことをまだ日本政府は分っておらず、結局この申し出は拒否される。
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これで後が無くなった日本政府及び軍部は、昭和20年8月14日、昭和天皇ご出席のもと、「御前会議」を開くが、ここでも政府や軍部は分っていながらポツダム宣言の受諾を決定できない。
そして結局この会議で無条件降伏を受け入れる採決を、昭和天皇のご判断に仰ぐことにしたが、もともと天皇のご意思など何とも思わず好き勝手なことをして、その終決と言う最大の責任をまた天皇に押し付け、そして自らはその天皇の事をおもんばかって嗚咽する軍幹部達、その中で昭和天皇は涙を流しながらポツダム宣言受諾を決定する。
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そしてその日本側の宣言文が「終戦詔書・Ⅰ」の天皇のお言葉、いわゆる詔書の文面であり、これは「下村 定」「米内 光政」「迫水 久常」らが8月14日、夜11時までかかって文面を作成したものであり、それを「玉音盤」に録音し、この録音の放送は8月15日正午と決められていた。
だがこの玉音盤、当時の録音状況はきわめて悪く雑音だらけであり、加えてこれが放送されるラジオも、一般的に日本のラジオは性能が悪く、聞いていた殆どの人は何を言っているのか分らなかった。
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しかし日本の民衆は何故か涙が止まらず、土下座して泣き崩れる者、いたたまれなくなって走り出す者、天皇陛下万歳と叫ぶ者など、日本が戦争に負けた事はどうにか伝わったのであり、ここに日本は敗戦と同時に終戦を迎えたのである。
ちなみにこの詔書を読んでいると、文面の前半と後半では大きな違いがある。
それは何故か、後半の半分は昭和天皇が8月14日の御前会議で、お言葉にされたものを文面にしているからである。
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太平洋戦争が終わって73年、言いたいことは山ほどあるが、今日ばかりはかつて戦場で、そしてB29に追い回され、また一瞬の閃光の内に死んで行った人たちの魂に敬意を現そう。
彼らが有ったおかげで今日この国があり、自分が生きていることを心から感謝しよう・・・。
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8月15日は日本の終戦記念日である。
それゆえ今日は、詔書原文と、その解説を掲載させて頂いた。