「終戦詔書」・1

                                                   「詔   書」
朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
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朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
抑々帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二國ニ宣戦セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ニ安定トヲ庶幾スルニ出テ他國ノ主権ヲ排し領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戦巳ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ盡セルニ拘ラス戦局必スシモ好轉セス世界の大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルニミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ心霊ニ謝セムヤ是朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ
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朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ為ニ裂ク目戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝國ノ受ケヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス
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朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ亦誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ慈クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ将來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ
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                              御 名 御 璽
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                                                          昭和弐拾年八月拾四日
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                                  「詔書解説」
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私は世界の情勢と現在のわが国の現状を考え、非常の措置でこの混乱を収拾したいと思うので、国民皆に発表します。
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私は政府を通してアメリカ、イギリス、中国、ソビエトに対して共同宣言(無条件降伏)を受け入れる事を通知した。
そもそもアメリカ、イギリスに宣戦を布告したのは日本国民とアジアの安定の為、世界の共栄の為であり、これは天皇家伝統の精神であり私の基本的な精神である。
決して他国の領土や主権を侵すものではなかった、しかし戦争が始まってからもう4年経ったが、陸海軍の兵士、将校、一億国民がそれぞれ最善を尽くしたにも拘らず、戦局は思わしくなく、また世界の大勢もわが国に不利にはたらいている。
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しかも敵は新しく大量殺戮が可能な残虐な爆弾を使い、罪の無い国民を殺害しているに及んでは、とても信じられない事である。
尚も戦争を続けるか、わが民族滅亡、ひいては人類文明をも叩き壊すようなことになれば、私は世界の人々や天皇家の祖先に対して、何と言ってお詫び出来るだろうか。
これが私が政府を通して無条件降伏に応じざるを得なかった理由である。
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私は日本と共に東アジアの解放に協力してくれた国々に対して、残念とも言う事ができない。
また国民に対しては戦陣で死に、職場で死んだ者、及び其の遺族のことを想うと五臓が引き裂かれるれるようである。
更に戦争で傷を負った者、家や職業を失った者の厚生に至っては、私のとても心配なことである。
今後日本の苦難は計り知れない、国民の気持ちも良く分かる。
しかしこれも時の運である。
耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、世界の平和の為に道を開こうと思う。
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私はここにいて、この国が存在し続け、国民皆の心と共に在る、決して激情したり取り乱したりして混乱を招き、世界の信用を失うようなことのない様に戒める。
どうか国を挙げて家族助け合い、この国の不滅を信じて、厳しく道は遠いが総力を上げて将来の建設に努め、道を踏み外さず強固な意志でこの国の繁栄の礎を築き、世界の発展に遅れない様にしてください。
国民の皆さん、私の気持ちを分ってください。
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                       昭 和 天 皇   印

「この車、どこに行きますか」

かなり古い資料になるが、少し面白い話があった・・・、今夜はヒッチハイクで日本一周を目指していた若者が体験した、不思議な出来事だ・・・。

日本一周無銭旅行に出かけたA大学経済学部1年生、佐藤芳則君(仮名)は、群馬県沼田市の国道17号線のはずれで、ヒッチハイクをするため、できるだけ長距離を走りそうなトラックを物色していたが、1968年頃のことだから、今と違ってヒッチハイクは珍しかったし、ましてや行き先が同じなら割りと乗せてくれる車は多く、なかなか快適な旅を楽しんでいた。

だが、その日は不思議と思うような車がつかまらない・・・ついに夜もとっぷり暮れてしまい、時計を見ると既に10時45分を少し回っていた・・・、と、そこを通りかかったのは1台のトラックだったが、手を上げると止まってくれ、都合の良いことに乗せてくれるとのことだった。
運転手の男性はおそらく40代後半だろうか、がっしりした体格の割には温厚そうな顔の人だったが、このトラックは荷物を満載していないから、荷台の方に乗ってくれと言われ、佐藤君は布製の幌がついた荷台に乗り込んだ。

「やれやれ、良かった、助かった」・・・。
どれくらい走っただろう、佐藤君は時計を出して時間を見たが、蛍光針は12時を少し回っていて、もう少し眠ろうと思ったが、何となく少し様子がおかしい・・・、トラックが物凄いスピードで、ぐんぐん他の車を追い越していくのだ・・・、佐藤君のカンでは時速90kmはゆうに超えているように思えた。
やがて峠にさしかかった頃、余りに運転が乱暴なので、幌の窓から外を眺めた佐藤君は驚いた・・・、なんと国道を右に左にジグザグ運転、トラックは暴走していたのだ。

余りのことにたまらなくなった佐藤君は、運転手席のガラスを叩いたが、この頃のトラックは運転席と荷台の仕切にガラス窓が設けられていて、そこを叩けば運転手には聞こえるはずだったが、一向にスピードが落ちる様子が無い、角度を変えてガラス越しに運転席側の前方を見た佐藤君は自分の目を疑った・・・、トラックは真夜中にもかかわらずライトをつけていなかったのである。

あたりは真っ暗・・・、その中をライトもつけていないトラックが、フルスピードで暴走しているのだ。
「運転手さん、ちょっと・・・」見れば運転手席も真っ暗・・・、「わぁー・・・」佐藤君は絶叫した。
運転手席には誰もいなかったのである。
慌ててライターの火を付け、運転手席にかざした佐藤君の眼前に広がっていた光景は、無人でハンドルだけがひとりでに動いているという、信じられないものだったのである。

スピードメーターは90を越えていて、何台もの対向してくる車が、悲鳴のようなクラクションを鳴らして通り過ぎている。
「このままでは必ず殺されてしまう・・・」
佐藤君は暴走するトラックから脱出を計ったが、それはどうも不可能だと分かると、今度は勇気を奮って運転席へ移って車を止めようと考えた。
何度か振り落とされそうになりながら、やっとのことで運転席のドアを開け、中に入り込んだ佐藤君は必死になってブレーキを踏み、トラックはようやく急停車した。
危ないところだった・・・、あたりを見れば片側は断崖絶壁、トラックは殆どタイヤを外しかけていた・・・、もう1秒遅ければトラックもろとも谷底へまっ逆さまだった。

佐藤君はトラックの運転席で暫く放心状態になったが、数分後ハッと我に返ると、ただただ恐ろしくなり、「ギャー・・・」と言う悲鳴をあげ、トラックを脱出したのだった。
「確かに僕が乗ったときは運転手は乗っていたんだ・・・、ところが気がついたときにはトラックには誰もいなくて、勝手に走っていた・・・」
無我夢中で走りこんだ近くの工事飯場で、佐藤君は訴えたが、そこに居合わせた人たちは「酒でも飲んでいたんじゃないか」とか「夢でも見てたんだろう」と言って誰も取り合おうとしない。

「本当だ、運転手が蒸発してしまったんだ・・・、私は無人トラックに乗って1時間以上も走っていたんだ・・・」佐藤君の悲痛な叫びは続く・・・、が、警察がその現場に行ったときはトラックはおろか、急ブレーキを踏んだと言う形跡すらも残っていなかった。
結局佐藤君は勘違いで夢を見ていたんだろう・・・人騒がせな・・・と言うことにされてしまった。

ところで、その翌日のことだが・・、警察には、ライトもつけないで暴走しているトラックに危うく衝突されそうになった・・・と言う苦情が殺到してくるのだった。

佐藤君が乗ったトラックはどこへ行くトラックだったのだろうか・・・・。

「最後の作戦」

戦争は愚かだ・・・そんなことは誰でも分かっている、だが歴史の大きな車輪が動き始めたとき、いかに優秀な人物と言えどもそれを贖うことができない。
そんな第2次世界大戦の末期、ドイツ総統ヒトラーの下にありながら、祖国とその人民を思い、自らの信じるところに従って自身の戦いをしていた者たちがいる。
今夜はドイツの英雄、「砂漠のキツネ」と恐れられたロンメル元帥・・・その元帥を最後まで元帥たらしめた第2次世界大戦中最も有名な男・・・ドイツ国防軍陸軍中将ハンス・シュパイデル参謀長の話・・・彼が取った最後の作戦を通して「男」と言うもの、「人間」と言うものを感じてみようではないか・・・。

始めてシュパイデル中将がロンメル元帥に会ったとき、彼はロンメルをこう評している・・・、「幕僚にとって最大の喜びとは、自分よりすぐれた指揮官に仕えることである、私は元帥に会ってその喜びを感じた。私は自分の思想、判断、推理は一切述べず、参謀から聞いた部隊の配置、能力に関する数字を、楽観的な面と悲観的な面とに分けて、並べて報告したが、すると元帥は直ちに結論を導き出した」

シュパイデルは北部フランスからオランダに至るロンメル軍の守備について、部隊配置を説明したのだが、ロンメル元帥は各部隊の展開能力の不備と補給不足に注目し、上陸してくる連合国軍の撃破は不可能だ・・・と結論したのである。
「血を流すことはできる、しかしそれだけの戦争は無意味だ」静かに、しかしきっぱりとこう言い切るロンメル元帥に向かって、シュパイデルは姿勢を正した。

シュパイデルは哲学博士でもあった、だから人間の運命、社会と言うもの・・・そういったことについても考えたが、ロンメル元帥は軍事関係以外の書籍は一切読まなかった・・・、知識と言う点ではその幅はきわめて狭いが、部下を想い、国家の前途を想う真面目な気持ち・・・これをシュパイデルはロンメルに見たのだった。
シュパイデルは兼ねてからドイツの敗北が決定的であることを見定め、スツットガルト市長カール・シュトローリン、元参謀総長フォン・ベック大将らといった反ヒトラー派と連絡を取り、ヒトラー総統の失脚と対連合国軍和平工作について謀議を続けていた。

「元帥がドイツの運命を変えることができる存在であることは確かだ、むろん元帥は軍人の中の軍人、政治的謀略には不向きなこともわかっている・・・、しかし元帥がドイツ国民とドイツ国防軍の名誉のために蜂起するなら、参謀長として最後まで元帥を補佐し、守る覚悟は決まった・・・。
シュパイデルはソ連軍に対抗する東部戦線のドイツ軍の事情、同盟国であるイタリア軍の能力、連合国軍の兵力や装備などの情報を私見を挟まずロンメルに提示したが、元帥にとっても、それらの情報は承知していたことだった。

次々にドイツ軍に不利な条件と結論が出され、話題は自然とドイツの将来に移っていった・・・が、シュパイデルの口からベック大将やシュトローリンの名前が出てきたことにはびっくりした。
実は前年の8月、シュトローリン市長からロンメル宛にナチス批判の文書が送られてきていて、更にその2ヶ月前、市長は元帥の自宅を訪れ、はっきりとヒトラー総統を辞職させ、代わりにロンメル元帥を大統領にして、連合国と講和する計画を打ち明けていたのである。

ロンメルはそのときは考慮するとして、それ以上の議論はしなかったが、シュパイデルから同じ話が出たことで、反ヒトラー謀議の範囲が意外と大きいことを知る。
そしてシュバイデルはロンメルに「二頭の馬に乗って欲しい・・・」と提案する・・・、軍人としての任務は果たしながら、ヒトラー失脚を計れと・・・と言うのである。
和平を求めるチャンスは連合国軍がヨーロッパに上陸した時を措いて他にはない、それゆえ連合国軍の上陸を成功させなければならない・・・、しかしロンメル軍はそれを阻止する任務を与えられているから、こちらもあらゆる戦術を駆使して任務を達成しなければならない。

だがいかにしても阻止できないのだから、ロンメルはまずヒトラー総統に抗戦が無理であることを納得させるように努める・・、シュパイデルはその作戦を話し始めた。
「ヒトラーに敗北を認めさせることはできないだろう・・・、私は彼を知っている、彼は敗北を知っていてもドイツ国民のことは考えずに、たとえ1軒でも家が残っている限り戦いを続けるに違いない」・・・ロンメルのこの言葉にシュパイデルは頷いたが、その予感は反ヒトラーの皆が共有しているもので、ヒトラーが承知しないときは、暗殺しかない・・・・。
5月27日、シュパイデルの家に同志たちが集まり、いざと言うときはロンメル元帥を全ドイツ軍の最高司令官とすることを決議した。

6月6日、連合国軍のノルマンディー上陸が始まると、シュパイデルは必死の防戦に努めたが、予想通りドイツ軍は敗退を続け、その悲惨な状況をヒトラー総統本部に送り続け、またロンメル元帥の名前で西部方面軍司令官ギュンター・フォン・クルーゲ元帥に手紙を書き、ノルマンディー戦線での勝ち目が無いことを、ヒトラーに報告して欲しい・・・とやるのである。

クルーゲは軍人として冷静な判断ができる男だった・・・部下を集めて協議し、ロンメルの判断は正しい・・・と認め、この手紙を手にした5週間後、ヒトラーに次のような意見を具申して、自らの命を絶った。
「本官はいかなる代償を払っても現陣地を死守せよ・・・と言う貴下の命令を受けた、がその代償がゆっくりと、しかも確実な部下の死であることを知ってからは、将来に対する希望を失った・・・」

クルーゲは誠実な人だった・・・、ヒトラー宛の具申には記載されていなかったが、親衛隊師団が、1人のドイツ軍将校が殺された報復に、1つの村の男女全員を教会に閉じ込めて焼き殺したことなど、明らかに戦力の崩壊よりも、ドイツ軍がその誇りを失ってきていることに絶望してしまった・・・、それゆえに死を選択したのである。

この事件の後、ロンメルにも「死」は迫っていた・・・、シュパイデルがクルーゲ元帥に手紙を送った5日後、ヒトラー総統を小型爆弾で暗殺する計画が失敗、次々に反ヒトラーの同志たちは逮捕されていき、9月5日、シュパイデルもロンメル軍の参謀長を解任され、ベルリンまで出頭せよ・・・となった、勿論ヒトラー暗殺計画に関する喚問が待っていることは明らかだった。
9月6日、前線視察中に被弾し、負傷して自宅で療養していたロンメルをシュパイデルが訪ねてきた。

「閣下、これから参謀長として私の最後の勤めがはじまります・・・」
シュバイデルの言葉にロンメルは怪訝そうな顔をし、説明を求めたい様子だったが、シュパイデルはそのまま何も語らず、唯微笑んで敬礼をすると、去っていった。

シュパイデルは9月7日午前6時に親衛隊将校に逮捕され、ベルリンの秘密警察(ゲシュタポ)刑務所に収容された・・・、それから厳しい訊問が始まったが、ヒトラー暗殺計画のグループの記録には、シュパイデルも、ロンメルもその名前が載っている・・・、しかしロンメルは国民の英雄だ、どの辺まで関与していたのか・・・、さすがに拷問は加えられなかったが、連日夜と無く昼と無く責められた。
だがシュパイデルは哲学者だ・・・、鋭い頭脳と機敏な反応、抜群の記憶力で、訊問を跳ね返したばかりか、しまいには訊問する側を「この男には勝てない」と言う感じにまでさせてしまうのである。
戦車も兵隊もいない、武器は唯言葉だけだが、シュパイデルはこの戦いに勝利する。
約3週間後、「ロンメル元帥は7月20日の事件(ヒトラー暗殺未遂)について、具体的行動を取ることは不可能だった」と秘密警察の報告書には記載されるのである。

ロンメル元帥の最後は有名だが、10月14日、自動車で連れ出された元帥は自決するなら国葬にする、嫌なら人民裁判にかけて家族の安全も保障しない・・・と言われ、置いていった毒薬を飲んで死んだ。
だが、ロンメルに自殺したら国葬の栄誉・・・はシュバイデルの最後の作戦だった。
いくら国民に人気があって、処刑すれば国防軍の反乱に会う恐れがヒトラーにあったとしても、シュバイデルの証言がロンメルに不利なものなら、ヒトラー総統は躊躇無く処刑したはずである。

「私は参謀長として元帥に借りがあるような気がしていた。元帥にはノルマンディー戦線で元帥の声価を傷つけない戦いを約束したが、しかしやはり私としては1日も早い終戦を願う気持ちが強く、だから作戦面では、しばしば元帥にふさわしい強力な攻撃を控えてしまった。私は元帥の逮捕が予想されると、元帥の名誉を守る作戦の実行を決意した。そして・・・勝った。この最後の作戦だけは完全な勝利だ」

ドイツ陸軍のみならず、世界中で最も優秀な参謀の一人、シュパイデル・・・彼が評価されるのは、その作戦能力や戦場での活躍は勿論、自身が信じた上官に対するこの忠誠心、心底からの尊敬・・・そうしたものもまた、評価に加えられているからではないだろうか・・・。

「仏の顔」

「おい、どうした、でかい図体して・・・かかってこんかいや」そのハイビスカスか何か分からないが、黄色地に赤のアロハシャツを着た、身なりも貧相なら喋る言葉も貧相な若い男は腰を少しかがめ、両手でボクシングのポーズを取りながら凄んだが、こんな男・・・その当時まだ若かった私は元高飛びの選手だったし、この時点でも後方宙返りを4回ぐらいは連続させることができたから、おそらく殴りかかってきても1発だって当てさせない自信があったので、上から見下すような視線を送ってやったが、男はどうやら私ではなく、隣の私の連れの男性に向かって凄んでいるようだった。

20代の前半・・・と言っても限りなく20歳に近い頃だが、青年団の団長にさせられてしまった私は、地元の祭りで使う法被(はっぴ)が古くなっていたので、新調してくれると言う区長に付き従って、少し都会の町へ出てきていたのだが、この区長の男性がせっかく都会へ出てきたのだから、どこかで美味い酒でも飲みに行こうと言いだし、繁華街をうろついていたら、前方からいかにもチンピラ・・・と言う感じの自分と余り歳が違わない若者2人が歩いてきて、運の悪いことに区長と少し腕が触れてしまったのだった。

それで、「おい、何とか言うたらどうや・・・、俺等を誰や思うとるんや」と言うことになったのだ・・・・が、この区長、年齢は50近くになっていたとは言うものの、体重96キロ、身長186センチ、しかも元柔道日本選手権の入賞者、水田に散布する肥料の袋(約30kg)を片手に持って散布し、10トントラックのバッタリ(トラックの横の分厚い金属の押し上げ枠)を1人で押し上げるほどの、腕に自信の人だったのである。
まともに喧嘩してもまずかれらに勝ち目が無いことは私が知っていたし、それでなくても手を出せば、殴ったその手が骨折するかも知れないような人だった。
「おい、お前、耳が聞こえないのか」区長が黙っているのを良いことに、ますます増長するチンピラたち・・・、だが相変わらず区長は黙って無表情に突っ立ったままだった。

「デカい図体して、度胸の無い奴やの・・・ええわい、土下座したら許してやろうやないか」チンピラの1人がそう言うのを聞いていた私は、てっきり次の瞬間その男が殴り飛ばされている光景を想像し、一瞬目をつむった。
だが、その瞬間区長の取った行動に私は思わず自分の目を疑った・・・、なんと区長はアスファルトに座り、通行人が見ている中で手をついて土下座したのである。

出鼻をくじかれた形になったチンピラ達は、少し気まずい感じになったものの「ごめんなさいはどうした」とまで言い、区長はその通り「ごめんなさい」と謝ったのだった・・・、せっかく喧嘩が見られると思っていた通行人たちは「なんだ、本当に大したことがないな・・・」などと言ってまた歩き出し、チンピラたちも散々罵りながらも、去って行ったが、この行動に猛烈に抗議したのは私だった。

あんなもの、自分ひとりだって勝てるようなもの、何で謝るんだ・・・悔しくて悔しくて仕方がなかった私は区長に詰め寄ったが、区長は一言・・・誰もけがをせんで済んだんだから良いじゃないか・・・と笑っていた。
それから適当な店を見つけた私たちは、区長のおごりで綺麗なおねえさんのいる店で一杯やり、最終電車に乗り込んだのだった。

あれからもう20年以上たったが・・・、昨年偶然出会った時、元区長は今年から米作りは止めたんだ・・・と私に告げ、また少し笑った。
理由は聞かなかった・・・、なぜなら元区長は片足を引きずるようにして歩いていたからだ・・・、米を収穫するときは30kgの米の袋が持てなければ、乾燥も出荷もできない・・・、そればかりか歩くのでさえ不自由では、そもそも機械の操作だって無理なのだ。

あんなに元気で強くて優しくて、そして一生懸命働いていた人でも歳はとってしまう・・・、生き物には寿命があることは知っていても、それが現実としては捉えられなかったが、こうして決定的な事実を見せられると、なんとも言えない侘しさを感じる・・・。
元区長は私に、自分の田を耕作してくれないか・・・と尋ねたが、既に私は自分の力でできる精一杯の範囲まで耕作面積を拡大していることから、お断りするしかなかった。
元区長はあの時もそうだったが、今はそれにも増して透明なほどの笑顔になっていた。
時々車を運転していると、夫婦で仲良くわずかばかりの家庭菜園に精を出している姿を見かけるが、そのときもやはり微笑んでいる。

働いて、働いて、夜も寝ないで働いて、体が動かなくなり、そして誰も恨まず、何も求めず、あるがままの現実を全て受け入れる・・・、もし現世に仏がいるとしたら、きっと彼のような顔をしているに違いない。

「最も尊い国」

物質のみならず生物、自然の摂理や運動の法則、社会の誕生と崩壊、男女関係から人間関係、気象、政治など、この世のあらゆる事象は混沌に向かい、この混沌に向かう速度や形態には一定の法則がある。
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混沌に向かう為の最小単位を一番理解し易いモデルが「量子カオス系」理論だが、現代でこそミクロ構造が見つかっているものの、大まかな点では「プランク定数」で充分なのであり、自然や物理、生物の「ゆらぎ」の最小単位、この世界の原理と言えるものが「プランク定数」(h)である。
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そしてこの「プランク定数」から、同じドイツの物理学者アインシュタインが量子力学理論を構築、「werner karl Heisenberg」(ヴェルナー・カール・ハイゼンベルグ)が「不確定性原理」を導き出したが、「Max karl ernst ludmig planck」(マックス・カール・エルンスト・ルードヴッヒ・プランク)やハイゼンベルグが歩んだ道は決して平坦なものではない。
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「第二次世界大戦」と言うカオス(混沌)の極みに有って、ヒトラーの独裁政権から逃れ祖国を棄てるのも決断なら、その崩壊して行く祖国の崩壊の後を考え、弾圧に耐える事もまた祖国を逃れるよりも更に重い決断だった。
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「プランク定数」の発見者「マックス・プランク」は、ヒトラー率いるナチス政権下でユダヤ人で有るが故に迫害され、追われるようにドイツを出国した「シュレディンガーの猫」で有名な物理学者、「エルヴィン・シュレディンガー」や「相対性理論」の「アインシュタイン」の為にヒトラーに直接抗議を行っている。
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また1943年のベルリン大空襲では、住んでいた家から焼け出され、命からがらローゲッツに避難し、その翌年の1944年には次男の「Erwin Piank」(エルヴィン・プランク)がヒトラー暗殺計画に加担した事で処刑され、彼自身も国賊と蔑まれ、石もて追われていくのである。
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1933年、ナチスの追求を恐れてロンドンに渡ったアインシュタイン、以後ユダヤ系科学者が次々ドイツを去っていく中、「マックス・プランク」はこの前年の1932年、31歳と言う若さでノーベル賞を受賞した天才「ハイゼンベルグ」にこう言っている。
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「今は生きる為にあらゆる事を我慢しなければならない」
「そしてこの国は必ず崩壊する」
「だが、この国が崩壊した後、誰が新しい国を創りなおすことが出来るだろう、君は残ってその責務を負うべきだ・・・」
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黙って下を向くハイゼンベルグ・・・。
それから後プランクとハイゼンベルグは周囲から「ユダヤ傾倒者」の烙印を押され、事有るごとに激しい言葉の攻撃に晒されながらもドイツ科学界に留まり、ドイツが開発しようとしていた原子力爆弾の開発を故意に遅らせていく。
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更にそうした情報や技術を、かつてその下で学んだコペンハーゲンの「ニールス・ボーア」にハイゼンベルグが流し、ボーアを通じて連合国側がドイツの原爆開発の進捗状況が遅い事を認識していたのである。
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ハイゼンベルグが日本への原爆投下を知ったのはイギリスの仮設収容所の中だった。
彼は一言、「有り得ない」、若しくは「馬鹿な・・・」と言う意味の事を呟いたと言われているが、この解釈は原爆が作られたと言う技術的な事に対するものか、或いは原爆が使われてしまった事に対するものかは明確になっていない。
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彼が科学者だった事から、後年技術的な事に対する言葉だったと解釈されている場合が多いが、私はむしろ両方を含んだ言葉だったと考えている。
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第二次世界大戦が終った1947年10月4日、マックス・プランクは89歳の生涯を全うし、この世を去った。
1930年、カイザー・ヴィルヘルム研究所の所長となったマックス・プランク、第二世界大戦終結後プランクの功績を讃え、カイザー・ヴィルヘルム研究所はマックス・プランク研究所と改名された。
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そして2011年現在、このマックス・プランク研究所はドイツの学術振興機関として、81の多分野研究機関を持つ学術機関として発展している。
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73年前の明後日、8月9日は長崎に原爆が投下された日である。
遠く離れた同盟国、ドイツの地でも原爆を巡って科学者が闘っていた。
祖国の為に原爆が作られる事を阻止しようとしていた者達がいた。
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原爆は人類が持ってはならない兵器だった。
奇しくも彼等の奮闘によりドイツより先に連合国のアメリカがその開発に成功、先に敗戦となっていたドイツではなく、日本にそれが投下された事を彼等はどう思っていただろうか・・・。
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自国でなくて良かった・・・と、そう思っていただろうか、否、違う。
そのエネルギーを頭の中で換算できた者たちは、原爆がいつか人類全体の脅威になる事を思っただろう。
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そしてそれが日本と言う国に投下された事を知ったとき、彼らはこう思ったはずである。
「主よ、我々人類を許し給え・・・・」
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アインシュタインは第二次世界大戦終結後、日本の地に立った時、「この国はもっとも尊い国です」と述べている。
この言葉の意味はとても深い・・・・。