「広島の天気はどうだ・・・」

このまま降伏と言う事態になれば、政府責任者は戦争犯罪人として死刑になるかもしれない・・・いやその前に国民総玉砕を主張する過激分子たちに暗殺されるかも知れない・・・・だがもう良い、どうなっても構わない・・・。
佐藤尚武駐ソビエト大使は溢れる涙と、胸の奥からこみ上げる熱い塊を感じながら、それでも東郷外相からの電報を押し戻す進言電報を起草した。

ポツダム宣言受諾を巡って日本がソビエトに仲介を頼んだ背景は、余りにも身勝手な理屈だった・・・すなわちポツダム宣言を受諾するにしても、日本国内で降伏と言う現実を納得させる方法がない・・・特に陸軍などは戦争継続を主張していて、このまま降伏したとしても、戦闘を平和的に収束させる力、統制が既に政府、軍部でもなかったのである。

また民主主義のイギリス、アメリカに対して共産主義のソビエトは確かに対立関係にあり、そうした意味でアメリカと戦争をしている日本には協力的なのではないか・・・とする日本の思惑は理解できない訳ではないが、7月24日、ソビエトは駐日大使を既に山形県酒田港から船で帰国させている。
ポツダム会談のさなか、こうしたソビエトの動きは、冷静に見れば既に結果が出ていたことを示しているが、それでも僅かな望みに頼らざるを得なかった日本・・・、決定的な意識の欠如はポツダム宣言の意味を理解していなかったことである。
ポツダム宣言は国際関係における明確な意思の表明であり、これに対する答えはイエスかノーであり、交渉も間接的回答も求めてはいないのであり、そこには日本国内の情勢により、降伏の体制を整えさせてくれれば降伏する・・・と言うお優しい配慮など望むべくも無いことだった。

1日の決断の遅れは後悔や懺悔ですむものではない、日本が滅亡する・・・このことを、この時点で切実に理解できたのは、駐ソビエト大使佐藤尚武をおいて他にはいなかっただろう。

8月2日午後3時、原爆攻撃を実行するテニヤン基地の第20航空隊は、8月6日、日本に「完全なる破壊」・・・すなわち原子爆弾第1号を投下する予定命令を受けていたのだった。
第1目標は広島、もし目視による爆撃が気象条件で困難な場合は小倉、長崎の順に目標を変更・・・となっていたが、このときの日本は例年にない寒気の影響を受けていて、梅雨は終わってようやく夏の暑さが訪れ始めていたとは言え、列島西半分の天気は相変わらず、ぐずついたものとなっていた。

テニヤン駐在の第393飛行大隊は、連日B 29を飛ばし日本上空を偵察していたが、広島方面の空は目視攻撃には適さない日が続いていた。
8月5日の朝、気象データは翌日の広島の空は「晴れ」と言う予報をだした・・・、運命の日がやってきたのである。
直径71センチ、全長3メートル、重さ約4トンのウラン型原子爆弾が組み立てられ、原爆投下機に指定された機体番号「44=86292」のB29に搭載され、整備員たちは大きな爆弾にクレヨンで思い思いのコメントを書いた・・・、「健闘を祈る」、「ヒロヒトに不運が訪れるように・・・」・・・・・などである。

機体整備と原爆搭載準備は8月5日午後11時には終り、従軍牧師の祈りの後、出撃前の食事が続いたが、その献立はオートミール、リンゴ、バター、ソーセージ、生卵、パンにコーヒーだった。
8月6日午前1時37分、気象観測用のB29が3機出発、それぞれ広島、小倉、長崎に飛び、上空の状況を後続の原爆搭載機に知らせてきた。
原爆搭載機の乗員はポール・チベッツ大佐以下11人、大佐は搭載機に「エノラ・ゲイ」の愛称を与えていたが、この名前は彼の母親の名前である。
この他に原爆装置に関する科学者4名、原子爆弾を含めて積載重量は65トンに達していたが、この積載重量は通常より7・2トンも重いもので、そのせいもあって「エノラ・ゲイ」は滑走開始から予想外に浮力がつかず、滑走路の先端付近でやっと離陸する・・・、8月6日午前2時45分のことだった。

エノラ・ゲイは硫黄島上空で夜明けを迎え、午前7時25分、四国の南東付近に到着・・・、その時先行して広島上空を観測していたB29「ストレート・フラッシュ」からモールス符暗号電文を受信した。
Y2、Q2、B2、C1・・・下の層の雲量2、中層の雲量1もしくは3、上層の雲量1もしくは3、第1攻撃目標爆撃可能・・。
「エノラ・ゲイ」は上昇を開始、午前8時38分、高度9970メートルにまで達すると水平飛行に移り、午前9時15分に第1目標の広島に原爆を投下する計画だったが、日本時間では8月6日午前8時15分のことだった・・・。

この日は月曜日、しかもこの時間は出勤時間でもあっただろう・・・、街には仕事に出かける人達が行き来し、家では主婦が洗濯、朝ごはんの後片付けをしていたに違いない、学校では元気な子供たちの声も響いていただろう。

8月6日午前7時9分、広島県北部に突然サイレンがなり響く・・・、大型機3機が豊後水道、九州、国東半島を北上してきたからだが、目標機はすぐに南下し始めたのでこの警報は午前7時31分に解除、3機の内1機は広島上空を横切って姿を消していった。
このB29は先行していた気象観測機だが、勿論そうしたことは日本側には分からない。
当時の広島市の人口は312000人、総戸数76000戸・・・、警報が解除されると広島市の街には会社、工場、学校へ出勤する人、疎開作業隊も作業を始め、編制中の本土決戦部隊に入隊しようとする者などが、いっせいに動き出していた。

「エノラ・ゲイ」は科学データ観測機と写真撮影機を後方に従え、広島市に接近、午前8時15分30秒、ウラン型原子爆弾を投下した。
広島では、原爆搭載機の接近には全く気づかず、上空に爆音が聞こえ、B29の姿が見えたときには全市が廃墟と化していた。
そして広島市民が最後に見たのは激しい閃光で、その後発生してきた強烈な爆風や空気ショック、赤い火焔を見た者は死を免れた者だけだ・・・。

15000戸の家が一瞬にして吹き飛ばされ、街は焼け焦げた死体で覆われ、その殆どが全裸体になっていて、男女の区別さえつかず、僅かに残る靴で軍人か民間人かを判別できただけだった。
激しい爆風に続いて発生した火災は、僅かに生き残った者にまで更に追い討ちをかけ、約57000戸の家を焼いた火焔地獄は死者の数をさらに増やした。
広島市の被害は市内の60%、約44平方キロメートルが廃墟と化し、死者行方不明者20万人、重軽傷者31000人と推定されている。

そしてこうした事態にもかかわらず、日本政府が状況を把握できたのは8月7日、それも原子爆弾に関する声明を出したトルーマン大統領を伝えた、サンフランシスコ放送のニュースで、始めて事態の深刻さを理解したのだった。

戦後アメリカは戦争終結への道は原爆投下以外になかったことを力説、またポツダム宣言に対して日本が取った態度が「無視」だったことをその理由としているが、日本に対する原爆の投下・・・その効果が絶大であることを知ったのは事実だ、そのことは戦後、戦勝国が先を争って核開発を行って来たことでも明白であり、いかなる言葉を持ってしても、その後ろに隠れた思惑を覆い隠すことはできなかった。

確かに核兵器は「神の力」かも知れない・・・・が、それを使ったときはどうなるか、神の如くにまるで虫けらのように人の手足をもぎ取り、ゴミのように焼くことの恐ろしさ、同じ肉体を持ち同じように心を持ったものを、これほどまでに容易く殺戮することの恐ろしさ・・・神が持つ力は絶大なら、その責任もまた無限の責任があることを我々は憶えておくべきだろう。

最後に核兵器が使われてから既に70年以上の歳月が流れた・・・その本当の悲惨さを知るものは年々少なくなってきている。
日本がどう言うところから今日までを立ち上がってきたのか、また「神の力」が使われた結果がどうなったか・・・
8月6日に際して、今一度思いをめぐらせて頂ければと思う。

(この記事は2009年4月29日、「神の力」の表題で他サイトに記載したものだが、広島に原爆が投下された8月6日と言う日の資料として本日当サイトでも記事とさせて頂いた)

「消滅曲線」

この宇宙が創造されるとき、今の法則や秩序に確定したのは必然ではなかった可能性が高い。
ちょうど幾つもの無限に存在する丸い型の上に、金属の丸い球が一つ落ちてきて、その型のどれかにすっぽりはまってしまったようなもので、おそらくこの宇宙の外側には、我々の住む宇宙とは全く違った秩序や法則を持つ存在が無限に続いているものと思われる。
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そしてこうした宇宙と宇宙の外側の関係に措いて、常に大きなものが小さなものを支配する法則を鑑みるなら、我々の宇宙は宇宙の外側の中、宇宙の外側の秩序や法則の中にあることになるが、その外側は秩序や法則が連続しているだけで、秩序や法則そのものが存在してないとすれば、この宇宙はその濃度によって秩序や法則を維持しているものと考えるのが妥当となり、あらゆるものの存在や法則に措ける確定性は失われ、如何なる存在もそれを否定し得る根拠を失う。
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太陽光の中で比較的波長の短い、例えば可視光線などは地球の大気によって吸収されにくく、為に可視光線は地球の表面まで到達し熱エネルギーに変換されるが、このようにして温められた地球の表面からは、比較的波長の長い赤外線が放出される。
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この赤外線は大気中の水蒸気やCO2 との相性が良く、そこで赤外線は水蒸気やCO2に吸収され、宇宙空間には放出されにくくなり、結果として熱エネルギーである赤外線などは地球の大気に留まり、地球表面上の気温を押し上げる。
この事を「温室効果」と言う。
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従って仮に今、地球上に赤外線を留めておく作用の水蒸気やCO2、いわゆる温室効果ガスが全く存在しない状況を想定するなら、太陽光放射量と地球が反射する放射量が相対的均衡を保つことのできる、地球表面の平均気温はマイナス18度と計算される。
しかし実際の地球表面平均気温はプラス15度で有ることから、実に地表温度を33度押し上げ、地球が今日の気候を維持しているのは「温室効果ガス」の恩恵によるものと言える。
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それゆえ一般的概念では「温室効果ガス」は有害なものと考えがちだが、もし「温室効果ガス」が無ければ、我々は気温マイナス18度の地球で暮らさねばならない事を考えるなら、この効果こそが生物の繁栄を維持せしめているとも言えるのである。
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だが大気中の「水」の量は、例えばここ数万年は一定量を保持しているが、CO2の大気中の含有量は近年の産業的躍進、化石燃料の大量消費、森林資源の枯渇などによって年々増加傾向にあり、南極大陸の氷の中に閉じ込められたCO2量、すなわち氷河期の頃、地球の大気中に占めるCO2含有量は280ppm(0・28%)だったにも拘らず、これが19世紀末には290ppm、1960年には315ppm、2000年を超えた段階で360ppm、2020年代では400ppmを超える事は確実と見られている。
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このCO2の増加率は過去30年のハワイ・マウナロワ山頂での観測でも裏付けられており、これによると1960年の大気中に置けるCO2濃度は315ppm前後だが、これが2000年には370ppmを超える数値となっている。
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地球上のCO2濃度は植物が成長する春から夏は減少し、植物の活動が衰える秋から冬には増加するが、地球に存在する陸地面積の不均衡は、基本的には昼と夜でもCO2濃度変化をもたらしており、数値的な誤差は微妙だが、昼間はCO2濃度が減少し、夜はCO2濃度が上昇している。
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また観測結果から1960年頃の年間CO2濃度上昇率は1年間で0・7ppmだったが、これが2000年では1・8ppm、すなわち年間上昇率は2・5倍に跳ね上がっている。
産業革命以降、地球の平均気温は約1度上昇したとされているが、仮に現在予想されている2050年度のCO2濃度が450ppmと言う数値が現実になった場合、その気象的変化は想像を超えたものとなりかねない。
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南極大陸の氷の融解、海水の膨張によって海水面が今より平均で3m以上上昇し、湾岸地帯の都市は水没のおそれが出てくるばかりか、世界的な降水分布変化が発生し、乾燥地帯が北方へずれ、北緯20度から30度の、現在の穀倉地帯が全て砂漠化するおそれが有る。
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その一方、現在の乾燥地帯の緑地化はそんなに早く進行しないことから、地球は慢性的な「食料危機」状態となり、更には現在は熱帯性の感染症であるマラリア、黄熱病、西ナイル熱などが現在の温帯地域まで感染範囲を広げ、気象が激化し、集中豪雨や台風の大型化、洪水や干ばつによる自然災害の巨大化が懸念されている。
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しかし良く考えてみれば解る事だが、温室効果ガスは生物繁栄に寄与する現象であり、これによって繁栄した生物がCO2を上昇させるのはある種の「命題」とも言えるもので、これはこれで自然な流れとも言える。
ゆえに人類の単位で考えるなら、CO2濃度は何が何でも抑制しなければならないが、この宇宙の秩序や法則から鑑みるなら、その法則の中に存在している。
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あらゆる物質、生物は波の性質を持ち、小さな幾つもの波が更に大きな波を描いて、その先端は消滅に繋がっている。
すなわち人類も多様な自然な営みの中で、波のように破綻と繁栄を繰り返しながら消滅に向かうのは正しい有り様と言える。
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だが人類はこうした有り様を認めず、常に繁栄を目指すことから、これまで自然の中の秩序に従い、それを利用して生きる道を塞ぎ、巨大な壁を作って小さな世界を防御することのみ考えて来た。
この事はそれまでに経験しなければならなかった小さな破綻の波を避ける事にはなったが、防御と言う有り様は人類を脆弱にし、やがて更に大きな波が訪れた時は完全消滅する危機を増加させた。
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小さな破綻を経験しておけば、或いは耐えられたかも知れない危機が、既に耐えられない状況に追い込まれている。
破綻を防ごうとする事がより大きな破綻の危機を招いている。
温室効果ガスの問題は基本的には完全破綻の波では無いかも知れないが、大きな破綻に伴って発生するものの一つである事は確かだ。
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人間の防御とは常に完全な状態を想起しているが、それはこの宇宙が持つ波の性質といつか対立する。
ファイゲンバウム定数は超越数であり、どこまで行っても割り切れない事から、それは基本的には動いていく数値だが、例えばこの数値の4兆桁目の数値を変えようと試みるなら、おそらく宇宙は消滅する。
そして人間が求めている「理想」とはいつもそう言う事を目指しているものだ・・。

「今宵は少し怖い話で・・・」

さて・・・今夜は何の話をしようか・・・、そうだこんな綺麗な月夜にはちょっと恐い話でもしておこうか・・・。

理論物理学者の故・猪木正文博士がこんな話を残していて、郷里の山梨に帰省した折、知り合いの女医さんから聞いた話らしいのだが・・・。

2月上旬、空は澄み切って月が煌々と輝く夜、急病人の往診から帰途についていたその女医さんは、既に夜も10時を回っていて、人気も全く無い大通りを急ぎ足で自宅に向かっていたが、1960年ごろの年代・・・今と違って車もそう多くはないし、ましてこんな田舎では、こうした時間に女医さんが1人で歩いているだけでも、どうかしている状態ではあったが、追われるように足取りを速める彼女は、その前方に何か見慣れない光景を目にする。

この寒い夜中に、一人の男が道端で焚き火をしてあたっていたのである。
なんとも尋常ならざる光景が不気味に思えた彼女は、更に足を速めてその男の横を通り過ぎ、それから走るように数百メートル過ぎ去ったが、ここまで来れば大丈夫だろう・・・そう思って少し歩く速度を緩めたときだった・・・、その道は少しカーブになっていて、彼女はそのカーブを「やれやれ・・・」と思って先へ進んだが、カーブの先に展開されている光景に、今度は心臓が止まりそうになった。

同じ男がやはりまた道端で焚き火をしてあたっていたのである・・・、彼女はもう訳が分からず、恐怖心からその男の横をまた走って通り過ぎた。
そして今度も数百メートル走っただろうか・・・彼女はいきなりぞっとするような恐怖感に襲われ、背後に何か異様なものを感じて振り向いた・・・、と、そこにはあの男が彼女のすぐ後ろでまた焚き火をしていたのだ・・・、そして男は悲痛な目をしてこちらをじっと見ていたが、その男の顔を見た彼女は腰が抜けるほど驚いてしまった。

その男はさっき彼女が往診した急病人の男だったのである。
彼女は目をつぶって走り出した・・・、そしてどうやって辿り着いたか憶えてはいなかったが、気がついたときは大息をつきながら家の玄関の戸を開けていたのだ・・・、彼女が家の中に入ったその瞬間、1本の電話がかかってくる・・・それはさっき往診した急病人の家族からで、急病人は死んだ・・・と言う連絡だった。

おっと・・・これはいけない、眠れなくなったかな・・・。

「明日天気にな~れ」

1994年と言う年を憶えている人はいるだろうか、この年日本はかつて無い経験をしているのだが、その1つは未曾有の猛暑と大干ばつだ・・・、水田にヒビが入り、日本全国の気象台で記録をとり始めて以来の夏季平均気温の高さとなり、最高気温も軒並み40度を超え、各地で給水制限が始まり、農業用水を巡っては流血事件まで発生していた。
この干ばつによる農業被害は100憶円を突破したが、その反面エアコンやビール、氷菓などの消費が伸びて、推計だが国内消費が1兆円近く伸びたとも言われている。

そしてもう1つは前年1993年の冷害による大凶作だ・・・、この年日本の米の作況指数は74、大東亜戦争敗戦の1945年の作況指数が67だから、戦後生まれの人にとっては、生まれて始めて米不足を経験したのが、この翌年の1994年だったのではないだろうか、政府は慌てて中国やアメリカ、東南アジアから米を輸入し、それに対処しようとしたが、民衆がパニック状態となり、国内産の米の価格は倍以上に高騰していったが、パニックの背景は米を扱う業者の扇動だったことが後に発覚してから米の値段は下がっていった。

過去江戸時代に発生した飢饉でも、こうした米を扱う業者の買占めや扇動によって、飢饉の被害が拡大したことを考えると、人間の行う所業はその良しにつけ、悪しきにつけ、そう変わらず、その対処のまずさも相変わらずのものがある。
1994年の猛暑では1兆円の国内消費押し上げ効果があったと書いたが、実はその前年には冷害による大凶作で、農産物の被害総額は1兆2566億円にまで達していたのである。

1993年、歴史的に凶作をもたらす冷夏には「ヤマセ」と言う風が吹く形態と、北西風が吹く形態の2種類があるが、これが重なっていた・・・、6月から8月までの平均気温は1954年に次ぐ過去4番目に低い気温、40年ぶりの冷夏と言うことだが、1898年気象庁が統計を取り始めて以来過去最低の日照時間だったこともあり、7、8月の東北地方の平均気温はなんと、19・1度しかなかったのだ。

だがこうした傾向は1991年から既に始まっていた・・・実は日本の気象はこの1991年を境界にして大きな変動期を迎えていったのだが、まず1991年、この年は大型台風が多く発生し、特に台風19号は1954年の洞爺丸台風と同じコースを辿り、死者62人、負傷者1499人を出したが、りんごなどの果物の落果、倒木、電力塔の破損、家屋の倒壊、火事などで、この年損害保険会社が支払った保険金はそれまでの20倍近くに達し、農産物の被害は2128億円に上った。
また台風が上陸したときの勢力だが、1991年の台風19号が941hp、1993年の台風13号は930hpで、こうした台風の瞬間最大風速は台風19号のとき、風速計が秒速62メートルで壊れていたことから、その風速は竜巻並みだったのではないかと推測されている。

また1993年に日本に上陸した台風は6個、これは1990年の記録に並ぶもので、西日本はこの年7月25日台風4号が徳島に上陸、7月27日台風5号が鹿児島県に上陸、7月29日に台風6号が長崎県に上陸と、僅か4日の間に3個の台風が上陸すると言う過去に例の無い異常な気象になっていたが、こうした台風により活発化した梅雨前線により大雨となり、1993年7月31日から8月7日にかけて九州南部地方を中心として大規模な水害が発生した。

死者、行方不明者79人、住宅の全半壊、流失746棟、がけ崩れ3799箇所、農産物や交通機関、流通などに甚大な被害を及ぼしたが、その後起こってくる日本各地の局地的な集中豪雨による水害の発生傾向は、この時期から始まってきていたのである。
またこの1993年は世界的にも異常気象となっていて、モンゴルは春の寒波、アメリカはミシシッピー川の氾濫、ヨーロッパでも12月に低温と気温の上昇が繰り返され、各国で大洪水となったばかりか、ブラジルでは6月と7月に、なんと霜の被害でコーヒーが打撃を受け、その生産量が著しく減少・・・コーヒーの国際相場は1986年に次ぐ高値になった。

世界的な気象の変動については、とても今回だけでは紹介しきれないので、別の機会に記事にしようと思うが、日本は1991年猛暑、1992年冷害、1993年冷害、1994年猛暑・・・と激変する気象条件下にあったのだが、面白いことにこうした気象の変動は国家の変動と重なっている。

1990年、ついにバブルが崩壊、湾岸戦争が始まってくるのであり、1993年、気象変動が最も激しかった年だが、第40回総選挙で自民党が歴史的敗北を喫して、日本新党始め7つの政党と1会派が非自民で連立した細川連立内閣が誕生している。
そして混迷を深めた細川内閣は羽田孜内閣に変わるが、2ヶ月しか持たず、今度は自民党と社会党、新党さきがけの連立と言う、摩訶不思議な連立により、社会党の村山富市代表が首相を務める村山内閣が発足した・・・、1994年6月のことだ。

この間、1993年、北海道南西沖地震・死者202名、釧路沖地震・負傷者928名・・・が発生していて、1995年1月には阪神淡路大地震が発生している・・・、つまり日本はバブル経済の崩壊、気象変動、地震、政変とあらゆる意味で大混乱のときだったのである。

1994年、長女が生まれた私は、この子にせめて食べることだけは困らないようにと、「恵」の1字を入れた名前をつけた。
そして私がいる限り、どんな時代になろうと、彼女が食べることに困らないようにと・・・私は米を作っている。

「宗教改革と資本主義」

中世ヨーロッパで起こった宗教改革、それは乱れ堕落したカトリック教会に対する反発から始まったものだが、同時にそれまでの「神」の概念から新しい「神」の概念への変革でもあった。
新しい概念で捉えられることになった「神」、その考え方は清新で、厳格、かつ華美を嫌い、質素をその信条としたが、一方で現代社会がその統一的経済観の1つとしている、資本主義の考え方がこの思想的背景に多く含まれていた。
今夜は最も相容れない関係であろう、神と金について、その親密な在り様を考えてみようか・・・。

形式化し堕落した信仰を捨て、聖書に復帰しようと言う宗教改革運動は、一般に16世紀の前半にルターやカルヴィンなどから始まったとされているが、その背景には十字軍の遠征の延長線上かどうかはともかくとして、大航海時代の到来とともに、まず地球が丸いとする地球球体説がこうした航海によって証明されたこと、ヨーロッパ以外にも高度な文明があることが分かったこと、中国やインドなどから今までヨーロッパでは知られていなかった物産などが多く流入し、生活が豊かになった者が現れて来たことなどから、今までのキリスト教的世界観が打破され、人々がキリスト教から解放されて行った経緯と、こうした新しい世界観に見合う宗教観を当時のヨーロッパが求めつつあった・・・と言うことだろう。

この中でもカルヴィンが行った宗教改革はその後、イギリスでは「ピューリタン」・スコットランドでは「プレスビテリアン」・フランスは「ユグノー」・ネーデルランド(後のオランダ)にあっては「ゴイセン」と呼ばれたが、こうした傾向を称して「カルヴィニズム」または「プロテスタンティズム」とも言い、根本は同じものだ。

カルヴィンはその激しい思想ゆえに本国フランスから迫害され、スイスのジュネーヴに逃れたが、そこで新しい教えを唱え、多くの信者を獲得・・・一時ジュネーヴを追放されたものの、1541年改めてジュネーヴに招かれ、やがて彼はジュネーヴの市政をも委ねられるようになり、原始キリスト教精神を理想として厳格な道徳の実行を中心とする「政教一致」の「神裁政治」を行った。

彼の思想は聖書に基づかない全ての教義、儀式を廃止しただけでなく、法王を長とするカトリック教会の制度をも全面否定し、信者は聖書に従って勤勉で道徳的な生活を守るべきだ・・・と言うことだった。
また人間は平等な状態において創造されず、ある者には永遠の生命が約束され、ある者には永遠の定罪が予め定められているともしたが、こうした説を「予定説」とも言い、カルヴィンの著書「キリスト教綱要」には彼のこうした厳しい考え方が詳しく示されている。

またカルヴィンは「職業は神聖にして平等、そして倹約は義務である」とまで教えていたが、職業を重視し倹約による富を肯定する職業倫理は、当時起こりつつあった資本主義と道を同じくするものであり、封建制度の崩壊と共に、大航海時代の到来により富を蓄えつつあった新興市民層の利害と一致、カルヴィンの思想はこうした人々の間に急速に広まり、イギリスやフランス、スコットランド、ネーデルランドに広がっていったのである。

こうしてカルヴィンの思想は資本主義の成長、民主主義の発展とかたく結びついていった。
ルネサンスと言う時代区分はかなり曖昧な区分であり、本来18世紀近代ヨーロッパの市民社会と言う形態が無ければ、単に中世と区分されるべきものだが、近代の市民社会と言う思想があればこそ、そこに中世からの流れを見て取れるからで、その意味においては近代の市民社会の思想と、このルネサンスから始まった民主主義の思想は車の両輪とも呼ぶべきものなのである。

では最後、少し長くなるが、カルヴィン思想(プロテスタンティズム)と資本主義の接点を詳しく解説しておこう、この関係を始めて指摘したのは、ドイツの社会学者マクス・ウェーバー(1864~1920)である。

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神において、人間の奉仕すべきなのは「神」か「金」かと言う点で、両者の理念は完全に対立するが、カルヴィンにとって人間のために神があるのではなくて、神のために人間が存在しているので、この世のあらゆることは神の栄光の為の手段としての意味しか持たない。

この人間の内だれが神の救済にあずかるよう選ばれた者であるかを知ることはできないし、互いに神に選ばれるよう助け合うこともできない・・・、したがって孤独で不安な人間は自己の救済を確信するために、できるであろう最善の方策として、絶えざる職業労働を命ぜられるが、この自分の為でも、同胞のためでもなく、もっぱら神の栄光を増すために行われる職業労働への専念によってのみ、宗教的疑念が除かれ、救いの確信が与えられる。

つまり労働と節約の生活を、現世における禁欲として救いの証明とするプロテスタンティズムの倫理は、プロテスタント的信仰の必然的結果とも言えるが、職業労働に対して積極的な倫理的根拠を与えた点で、資本主義を宗教的に裏付けた結果となり、このことで資本主義が「神」に容認・・・いやもっと言えば、唯一救いの道・・・ともなった訳で、カルヴィンや他の宗教改革者達が望むと望まざるとに拘わり無く、これ以後資本主義的精神の成立を推し進めるものとなったのである。

何やら敵の敵は味方・・・のような話だが、
働いて節約し、その結果「金」を蓄えるのは悪いことではないらしい。