「民事再生法の適用」

「さすがは奥様、お目が高いですね、これは良いものでして、奥様に・・と思ってお持ちいたしました」唇の薄い、いかにも軽薄を絵に描いたような○△デパート外商部員は、いくら若作りとは言え、既に限界点で40代に留まっている老舗菓子店の女将に、人目に付く場に置くことさえはばかられるような派手な下着を勧めていた。
「あーら、そうかしら・・・それいただいて置くわ、いくらなの」
「まあ、奥様くらいのお立場でしたら、このくらいの価格は本当は失礼かとは思ったのですが、ほんの5万円になっております」
「本当ね、ちょっとリーズナブル過ぎるわね・・・いいわ一週間分・・そうね10枚買うわ」
「ありがとうございます」外商部員は後ろで舌を出していたが、これで50万円の売り上げ・・・満面の笑顔で玄関を出て行った。

夜になって、いつも不機嫌なのだが、それにも増して今夜は一段と精彩を欠いた夫が、食事中ぼつっとつぶやいた「もう・・・ダメかも知れない・・・」
「えっ、ちょっとそれはどういう事なの」
女将はこの老舗菓子店の社長でもある亭主を問い詰める・・・話はこうだ・・・。

200年も続いた菓子店・・・だが、長引く景気の低迷に毎年売り上げが伸び悩み、おまけに数年前に建て替えた本店ビルは、いくつかのフロアーを貸して収益を図ろうと思っていたが、賃貸料の高さから誰も借り手が無く、勢いに乗って各地に支店を出し、デパートにもフロアーを構えたが、こちらも経費倒れ・・・友人の勧めでゴルフ場の造成にまで手を出したのが命取りだった。
瞬く間に資金ショートを起こし、従業員の給料は遅れ、材料や支店の家賃も滞っていたが、決定的だったのは銀行の融資がストップしてしまったことだった。
商工会議所の副会頭までしていても、もはやその資金事情の悪さは衆目の知るところとなっていたのである。

負債総額60憶円・・・ついにこの菓子店は弁護士に相談し、直ちに会社更生法の手続きに入ろうとしたが、それに待ったをかけたのが商工会議所や△△県だった。
このように知名度があり、県を代表する老舗菓子店が倒産ではそのダメージが大きすぎる・・・間に入るから店は潰さない方向で検討して欲しい・・・こうした要望が表に出るに至って、地元出身者で他府県在住の菓子店ファンも声を上げ、その結果債権者に了解を取り、何とか菓子店を続けさせようと言う声があちこちで上がった。

会社更生法の申請は民事再生法の申請・・・つまり、借金はカットしてもらって店は続ける方向へと方針転換が図られたが、その表舞台に立ったのはこの女将だった。
日々送られてくる支援の声に奮起した女将は夫に代わって社長に就任し、周囲から集まった同情の声を涙ながらに訴え、これにより債権者の銀行は周囲の声を恐れ再生法に同意、お金を貰えなければ日々の生活にも事欠く仕入れ業者や材料提供業者は、最後まで再生法に反対したが、結局こちらも周囲の圧力で、支払いを受けることなく債権を放棄せざるを得なくなった。

それからの女将は凄かった・・・。テレビに出るわ地元新聞には出るわで、また菓子店再建にかける美人女将・・・と言うフレーズはマスメディアとしても美味しい存在だったことから、一躍有名人になっていった。
菓子店の業績は何せ60億円の借金が無くなった訳で、それ以降は全て利益になる仕組みから、瞬く間に回復していったが、こうした業績の改善を見越して、債権を放棄した以前からの取引業者からは、何故か大きな不満がささやかれ始めていた。

貸した金が戻ってこないばかりか、女将は調子が上向いてきたら、今度は支援してくれていた彼等のような、古くからの取引業者を店から締め出し始めたのである。
やがて女将は自身の菓子店再建の努力を語り、あちこちで講演活動まで始め、頑張る女性のカリスマ的存在になっていったが、この頃になると余りにも自己主張が強く、表裏があるこの女将をマスメディアも、もてあまし始めていた。

それでも女将はどんどん報道関係者を呼んでは新作の菓子の紹介、自身が手がける企画の売り込みをしていった・・・、そして次第に60憶円の借金は自分が何とかしたのだ・・・とその講演で語るようになり、取引を打ち切った業者から何か言われると「法律で、もうその話は終わったのよ」と突き放していった。

そしてこの老舗菓子店は、今日他の菓子店が借り入れで苦しんでいるのを他所に、多額の利益を上げていった。

女将の主張は正しい・・・、確かに民事再生法で債権を放棄した者に、以後は何かを支払う義務は無いし、取引を継続する義務も無いが、「商い」の基本は信用である。
借金をチャラにされたおかげで家を失い、路頭に迷ったものを尻目に、自分はその財産をしっかり守り派手な暮らしを続け、そしてそれは法律で守られたものだと言う・・・こんなことが道義的に許されるかどうかだが、せめて「すみません」の一言、僅かばかりでも、見舞金の一封でもの気持ちが、それこそ商いの道ではないだろうか。
そして現代社会は世界中で、これと同じことが行われている。

1990年、バブル経済が破綻したとき、この処理に税金を使って資本注入するのは今回限りの特別の処置だ・・・と日本政府は言ったが、どうだろうかアメリカ発の世界的大不況下で、税金を使った資本注入はもはや国際的な基本、マニュアル化してしまった。
その背景には大きな銀行が潰れたり、大企業が倒産すれば社会的なダメージが大きいから、ここは小さな正義やモラルには目をつぶって、実利を取りましょう・・・と言うことだろうが、食品偽装や不当表示が大手企業や老舗食品会社からも発生してきたのもバブルの後からだ。

大きな損失を防ぐ為に小さな正義を犠牲にしていくと、我々は気づかないうちに何かとんでもないことまでも容認してしまったり、見逃していくのではないだろうか、商いの基本は信用・・・と言う言葉が何か遠くなってきてるように思えてならない。

「何だ、これは・・・」

1960年1月2日、イギリスの商船「コリンシック」号は、ピトケルン島から一路ニュージーランドに向かっていたが、波はそれほど大きくなく、天気も良かったし、順調な旅を続けていた・・・が、甲板で作業をしていた乗員は、乾いている甲板のあちこちで、不規則な形の濡れたシミのような跡を見つける。
そして不思議に思ってあたりを見回すと、それと同じようなシミは甲板全体にあって、しかも水よりは粘液性の高い液体のようだった。

「何だ・・・これは」乗員は思わず上を見あげ、その余りに奇怪な光景に言葉を失った・・・、なんと空から直径1メートルほどのゼリー状・・・いや絹のように滑らかでやわらかそうな塊が降ってきていて、それが船の甲板に落下する前に細かく壊れていた・・・、甲板のシミはこの塊が壊れた破片が液体化していたものだったのである。

唖然とする・・・と言うのはこうしたことを言うのだろう・・・、その大きな塊は乳白色に少しハチミツが混じったような明るい色で、泡の塊のように軽くて、しかも表面はゼリーのような滑らかさ・・それが不思議なことにこの船の航路のちょうど片側だけ、広範囲にあちこちで降っていたのである。

航路の反対側にはその塊は全く降っていなかった・・・、乗員は慌てて船長を呼び、他の乗員たちも口々に「何だ・・・なんだ・・・」とこの光景を見守っていたが、船がニュージーランド沖合い250キロメートルの地点に至るまで、実に1500キロメートルにわたり、特定の幅を持ってこの塊は降っていたのだった。
乳白色にハチミツが混じったようなその塊は、見た目に甘そうな感じがし、しかもふわふわと漂うように降り続けていたのである。

「コリンシック」号の乗組員たちは船長以下、暫く呆然とこの光景を眺めていたが、このままでは予定の時刻に港に着けない恐れが出てきたため、少し船の速度を上げて18ノット以上の速さにした・・・そのとたんこの謎の塊は採取が不可能になってしまったが、それでも空をあちこち同じような1メートルほどの塊が漂い続けていた。

この現象に関して、船長だったA・C・ジェームス氏は面白いことを話している。
彼がまだ見習い士官だった1928年、南海諸島を襲った激しい地震の直後、空中を漂う似たような謎の塊が、たくさん降ってきたことがあることを思い出したからだが、その時降ってきたものと今回の塊は、全く違うもののように思える・・・と言う話だ。

船がニュージーランドに着くと、すぐに専門家が乗船してきて船長は意見を聞かれたが、普通こうした正体不明の現象や、解決が付かないような事件では専門家・・・と言ってもその名前は伏せられることが多いのだが、この現象ではそのときの専門家の名前と資格が残っている・・・、とすればこの現象の解明に自身があった・・・と言うことかも知れないが、彼等はこう見解している。

ドミニオン博物館、生物学者J・C・ヤルドーイン博士、地質学協会の地質学者G・L・シャウ博士は船長から話を聞くと「その塊は海底火山の爆発で発生した一種の軽石のようなものだろう」と話した。
確かにそうかも知れない・・・が、1928年の話はそれでも良いだろう、しかし柔らかそうな乳白色にハチミツが混じった色の軽石・・・しかもそれは空中を漂っていたのだが・・・ジェームズ船長はこの2人の専門家の意見に、ただ沈黙していたらしい・・・。

「月の光は暖かい」

今では田植えも5月になったが、その昔・・・と言っても30年か40年ほど前だが、普通田植えは6月だった。
山の中の小さな田んぼまで両親や祖父母達は苗を植え、さすがに家に置いておく訳には行かなかったのか、幼い私たち兄弟も荷物と一緒に一輪車に乗せられて運ばれ、家人たちが田植えをしている間は好きなように山を走り回っていた。

おそらく年齢にして5歳とか4歳だった私は、昼の弁当が待ちきれず、いつも両親に時間を聞いていたが、いつしか太陽の上がり具合で時間が分かるようになり、それからは昼になるまで我慢するようになって行ったが、山には本当にいろんな生き物がいて、キジなども間近に見ることができたし、面白いのは狐だった。
狐はもし自分が追われるとしたら、相手の人間がどのくらいの距離なら追いつけるかで、人間との距離を計っていて、その距離が保たれていれば逃げない・・・、だから相手の人間によって狐に近づける距離は違うのだが、子供の場合はその距離が格段に近くて、ほんの数メートルまで大丈夫なのだ。

またこうした自然の生き物は、大体いつも同じ時間に同じ場所を通るから、毎日顔を合わせていると、たまに遅れて出てきたときなどは「今日はどうしたんだろう・・・」と少し心配になったりするものだが、この狐昼間は鳴かないが、夜になるとクヮン、クヮンとか、まるで女の悲鳴のようにギャーとか鳴くので、子供にとっては少し恐い生き物でもあった。

そしてこの頃の田植えが今より遅かった理由の一つは、苗を「せっちゅう苗代」と言って、水田に水を張り、そこで土の代を作って種から苗を育てていたからだが、もう一つは今のようにトラクターのような農業機械が無かったからで、例えあったとしても山の中の田んぼでは使うことができなかったからだ。
またこうした田舎ではそもそも炭焼きと農業、林業しか仕事が無く、女たちは秋になると富山平野や加賀の大規模な農家へ出稼ぎに行って現金収入を得ていたことから、こうした時期に稲刈りが重ならないよう、田舎の米は10月10日頃からしか実らない「晩生」(おくて)が栽培されていた。

この晩生の代表的な米が「ササニシキ」だが、このササニシキと早稲(わせ)と言って早く実る米を交配してできてきたのが「コシヒカリ」で、現在ササニシキは宮城県や北関東の1部でしか栽培されていない。
一般に早稲品種は晩生と呼ばれる品種より味は悪いとされるが、寿司飯などは早稲品種が向いていると言う話もある。
そしてこうした時代、大規模な農家は大体早稲品種を作っていて、家でも母や祖母は8月の終わりごろになると、出稼ぎに行き、家は男だけになるのだが、炭焼きをしていた父がいないときは、祖父と私たち幼い兄弟だけで暮らさねばならないことがあった。

約1ヶ月くらいだろうか・・・毎年のことなので慣れてくるのだが、それでも子供心には本当に帰って来るのかが不安なものだった。
9月も終わり頃・・・祖母と母は両手に抱え切れなくて、背中にまで背負って梨やブドウ、珍しいお菓子や饅頭、私たちが喜びそうなオモチャなどを手に帰ってくるのだが、私たちには盆や正月と同じようにこうした時期が一番嬉しい時期でもあった。

そしてこれから自分の家の稲刈りが始まるのだが、ああした時代のことだ・・・コンバインなど無く、せいぜいがバインダーと言って、刈り取って縛っていくだけの機械で刈り取り、それを集めて「はざ」と言う長い横木が8段ほど等間隔に並んでいて、それをまた木の長い丸太で固定した乾燥用の、平面やぐら状のものに掛けていくのだが、このように忙しい時期は子供といえども容赦なく使われるのが普通で、特に「はざ」に稲を掛けるのは身軽な子供のほうが向いていて、下で両親や祖母が放り投げた稲の束を「はざ」に足を引っ掛けて両手で受け取り、綺麗に並べていくのは私の仕事だった。

朝早くから稲刈りは始まり、夕方それが集められ、それを「はざ」掛けするのだが、大体終わるのは夜の9時・・・遅ければ11時くらいまでかかってこの作業は行われ、やがて小学校へ通い出した私は学校から帰ると毎日この作業が待っていた。
夕方「はざ」のてっぺんにいると地上から4メートルくらいだろうか・・・両足をうまく横木にはさんで稲を受け取っていると、赤とんぼがまるで目の前を泳ぐように飛んでいて、飼い猫がみんながいると嬉しいのか、用も無いのによじ登ってきて稲穂でじゃれて遊び、その頭を撫でながら作業に精を出す・・・、10月のことだからやがてとっぷり日が暮れると丸い大きな月が出てくる。

おかしなもので月の光は暖かい・・・それまで少し寒かったのが、僅かだが背中に温度を感じ、暗くて殆ど勘で続けられていた作業が少しだけ楽になるのだった。
私は農作業が大嫌いだったが、こうした時間だけは何となく、幸せと呼べるものを感じていたような気がする。

この稲の乾燥が終わるのは10月の末から11月の始め頃、天気が悪ければ12月、雪が降る中で稲を取り込んだときもあったが、取り込まれた乾燥後の稲は脱穀機にかけられ、 籾(もみ)になり、この籾の殻を取ってやっと玄米になり、玄米を精米して始めて米になるのだった。
そして脱穀後の藁(わら)はこれも大事な収入源で、17縛りを一束(いっそく)と言って、これを畳業者さんが一束40円ほどで、大きな幌のトラックで買取に来るのだが、この頃のアンパン1個の値段は15円ぐらいか・・・・、今のお金にしてみれば、家は藁だけでも40万円近くの金額と同等な収益を上げていたのだろうと思う。

ここまで苦労して作った米、さぞかし今から思えば儲かったように思うのだが、その割には「秋のお祝い」と言う収穫祭があっただけで、全ての農作業が終わっても、せいぜいが「おはぎ」を作るくらいで、今度は炭焼きと言う具合に、家の家族は働きっ放しだったし、子供たちにも特に何もおこぼれがなかった。

私は、休んでいると何となく罪悪感を感じるのは、こうした貧しい水飲み百姓の生まれだったからかもしれない・・・。

「世論調査と言うもの」

最近の選挙におけるテレビの開票速報では、出口調査による当確報道の競争が熾烈になっているが、これは投票日当日、投票所の出口で実際に投票を済ませてきた有権者にどの候補者を投票したか、どの政党に投票したかを聞き取る調査方法で、対象となる投票所を適切に選定すればかなり高い精度で候補者の当落が予想できる・・・としているが、この場合は全ての人が回答してくれる訳ではなく、現在でも科学的に理論として確定していない調査方法である・・・。

つまり、外れても責任は持ちませんよ・・・と言うことであり、その表現が「当社が行った出口調査では・・・」となっていることから、一応公的な「お墨付き」のある調査では無い、としているのだが、視聴者がこうした報道から受ける印象では、テレビに当確が出れば「当選した」と錯誤するのは、避けられないことである。
例えばここに1993年7月の衆議院総選挙のデータがあるが、投票日の18日のテレビ各局は当確早打ち競争を競いあい、そのため当確の打ち間違えも相次いぎ、NHK2件、TBS2件、日本テレビ4件、フジテレビ3件、テレビ朝日6件、テレビ東京2件・・・と、東京のキー局は軒並み当確発表のミスを発生させていた。

また週刊誌、新聞、最近ではインターネットでもそうだが、選挙が近づくとその予想調査を実施して、当落予想を報道するのが恒例となっているが、この調査方法の根底は不明瞭なうえ、特に新聞、テレビの予想などは調査方法さえ明確になっていないにも拘らず、報道により「勝ち馬に乗ろう」とする有権者意識がはたらき、これが投票日当日の有権者の投票行動に対して影響しているのではないか・・・とする意見もあり、こうした現象を「アナウンス効果」とも言う。

確かにこうして当落情報に近い情報がマスメディアによって報道されると、有権者の意識の中に予断、つまり決定事項ではないが、そのように錯誤してしまう現象が起こる可能性は否定できず、自民党はかねてより選挙予測報道に対して規制を加えようとして、野党の反対にあって実現しない状況だ。
だが候補者がマーケティング・リサーチ方式で選挙区の人々の関心やその方向性、相手候補の支持基盤などを調べることは、いまや当然と言えば当然のことであり、各種調査方法を駆使しての選挙は、候補者を始め、これらの候補者の運動を報道するマスメディアにも広がっている。

またテレビの「世論調査」だが・・、事件発生とともに世論の動向を迅速に調査し、発表することを狙いとしていて、電話調査で行われるのが一般的だが、1992年に発生した東京佐川急便問題の頃から頻繁に行われるようになり、テレビの情報番組や報道番組などで活用されている・・・が、調査対象者が1000人からせいぜいが3000人、その内平均の回答率は60%台から80%台・・・時には600人の意見が国民全体の意見として発表されている場合もあるので、見る側はこうしたからくりがあることを認識しながら、その信憑性を判断する必要があるだろう。

更にこれはインターネットもそうだが、近代の情報はそのスピードに重点が置かれていて、「質」はおざなりの状態になっている。
このことは非常に危険なことなのだが、例えば間違って誰か特定の人が何らかの事件の容疑者にされてしまった場合、よしんば翌日に無実が判明したとしても、既に何らかの被害が発生してまうことであり、こうした事態では選挙においても実際には有力な候補を、投票日前日、間違って不利だと報道した場合、その候補者は報道によって本来当選すべきところを落選する可能性もあり得るのである。

近年報道関係・・・特に新聞、テレビなどのマスメディアはそのスポンサー契約をインターネット業界に奪われつつあり、経営が苦しくなってきていて、地方であれば行政と共同事業を起こしていたり、行政を利用した形での事業収入に依存している傾向があり、こうした関係から特定の候補者が恣意的に貶められたり、反対に本来不利な候補者が、有利と報道される可能性が否定できない状態となっている。

また一部地方新聞の中には、映画などの製作企画を行政に持ち込み、「地域おこし」として映画を製作・・・そのチケットを行政が売っていたり、商工会議所が協賛して懐の苦しい中小企業に10枚単位でチケットを買い取らせたり、と言うことが行われているとも聞く。
こうした傾向はおそらく中央紙でも同じことが起こってくるだろうが、それより深刻なのは現場記者の不足であり、経営の苦しさから現場を取材する記者の数は年々減らされていて、そのため現地の本当の声は届かず、上辺だけの軽率な状況が報道され、真実が報道されなくなることである。

このことが地方における政治的腐敗を容認し、地方経済が堕落していく要因の1つになり、また報道機関が報道の自由を、弱く攻撃し易い者に向け巨悪に目を瞑るなら、国民はそれによって希望を失うだろう。

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「私、嬉しい」

人間には生まれながらに強弱がついていて、これは決して生命力のことではなくて、腕力のことでもないが、その関係に措いて2人きりになった時、どちらか片方が必ず主導権を握り、そうかと思えば3人になったときは、2人では主導権を握れなかった者が主導的になったりする・・・そう男女、年齢に関係の無い「人間力」のような差がある。

私はどうもこの「人間力」が弱いのか、友人と同じように街を歩いていても、キャッチセールスに声をかけられるのは必ず自分だったし、宗教の勧誘でもそうだった・・・、また電話の保険セールス、新聞勧誘などがなかなか断れない、セールストークだと分かっていても、言葉でがんじがらめにされて、結局読みもしない新聞を3社も購読していたり、宗教勧誘の人の話を長々と聞いていたりするものだから、家族からは「勧誘が来たら出てはいけない」とまで言われているが、確かに妻や母などが一言でビシッと断っているのを見ると、凄いな・・・と思っていた。

かなり以前のことになるが、妻の母親が老人性のうつ病になってしまったことがあって、遠く離れた大学病院へ診察を受けに行ったときのことだ・・・、こうした病院へは余り来たことが無い私は、妻と妻の母と一緒にその精神科のフロアで診察の順番を待っていたが、こうした診察科目だから、どことなくみんな元気がないか、反対になぜか用事もないのにうろうろしている初老の男性とかがいて、やはり普通の感じではなかった。

歴史がある古い大学病院と言うものは何となく作りが学校に似ていて、診察室やレントゲン室が横にずーっと並んでいて、その前に広い廊下があり、そこに硬いベンチが並んでいるのだが、その待合所のベンチに3人で座っていたら、突然遠くから何やら賑やかな声が聞こえてきた。

「わたし、嬉しい・・・」「わたし、嬉しい・・・」と言う言葉だけを繰り返しながら、両親らしい50代の夫婦に付き添われ、走るように廊下兼待合所を歩いてきたのは、多分20代前半ぐらいの女性だったが、誰が見ても一目で精神障害であることが分かった・・・白いワンピースを着ているのだが、裾をめくって足を手で掻いてみたり、両親が何度もスリッパを履かそうとしてもすぐ脱いでしまったりで、「わたし、嬉しい」しか言わない、顔は笑ったようににこやかなまま、目は完全に焦点が合っていなかった。

恐らくこの女性は病院へは何度も訪れているのだろう、近くにいた女性看護士さんは「○○ちゃん、元気だっだ・・・」と声をかけたが、その返事も「わたし、嬉しい・・」だった・・・が、それよりもっとびっくりしたのは、その女性が次の瞬間看護士さんの腰を抱いて、お尻を撫で回し始めたことだった。
いくら女性同士とは言え、この光景にはこの場にいた17、8人の人、その内半分ぐらいは付き添いの親族だったろうが、思わずギョっとなったに違いない、わたしも思わず目を伏せたが、「あら・・○○ちゃん、えっち・・」とくだんの看護士は笑っているのである。
そしてカルテらしきものを持って診察室へ入ろうと、「暫く待っててね」と女性に言うと立ち去ったが、女性は今度は廊下を行ったり来たりし始め、父親らしき人や母親らしき人が座っている所から、わたしたちが座っているところを、何度も何度もスキップを踏みながら往復し始めたのである。

何となく、そうなるんじゃないか・・・って気がしてた・・・。
そうこの場面では、みんながこの女性を恐れていたし、みんな自分のところへは来ないでくれと思っていた、私もそう思っていたし、だから女性が自分の前に来るたびに下を向いて、目を合わさないようにしていたのだが、看護士さんのあの対応を見れば明らかで、彼女がさっきみたいなことをするのは、そう珍しい事ではないのだ。

やがてその女性は私の前でスキップを止めた・・・そして下を向いているわたしに近づいてくるのが分かった・・・そして次の瞬間、ひざまずいたかと思うと、下から私に勢いよく抱きついた。
彼女はわたしの頬に頬を摺り寄せるようにして「わたし・嬉しい・・・わたし・嬉しい・・・」といい続け、対応に困った私は周囲を見回したが、みんな見て見ぬふり・・・「あーあやっぱりな・・」と言う感じで、隣にいた妻でさえ下を向いて顔を上げようとはしなかった。
少し離れたところにいる看護士さんに視線で助けを求めたが、その看護士さんの目は「暫く我慢してね・・・」と言っていた。

万策尽きた・・・、わたしは覚悟を決めて女性の肩に手をかけたが、わたしが引き離そうとすると思ったのか、女性は更に私にしがみついてきた・・・ああ・・この感触には記憶がある・・・そうだ淋しさと不安だ・・・。
人間は淋しさと不安がつのると、人にこう言うしがみつき方をする・・・、「わたし、嬉しい・・・」としか言わないが、この女性は不安なんだと気づいた私は、体の力を抜いて彼女の思うとおりにさせることにしたが、彼女は更に強くしがみついてきた。

時間にしてどのくらいだろう・・・恐らく1分も経過していまい、だが私には10分以上にも感じたが、そのうちさっき診察室に入って行った看護士さんが、診察室から出てきた・・・「あーら、○○ちゃん、良かったね・・・」と言って私に近づくと、女性の脇を抱えて私から離すと、手を繋いで今度は一緒に診察室へと入っていった。
その後から彼女の両親が、私の前を通って診察室へ入っていったが、その通りがけ、2人は私に「すみません、ありがとうございました」と頭を下げていった。

両親が気の毒だった・・・恐らくこの両親が死んでしまえば、彼女は1人で生きなければならないだろう、それを思うと私は胸が締め付けられる思いがした。
生物は進化のメカニズムとして、必ずその種族に3% 程の奇形を起こさせる。
その奇形の程度は軽いものもあるが重いものもある・・・、そしてこうした奇形は自然現象だろうが、人為的だろうが、あらゆる手段で同じ比率を持っていて、非常に不安定な存在で、生命力も弱い場合があるが、実はこの奇形の不安定さが自然環境が変わっていくとき、柔軟に対応し、次の次くらいの世代で完璧に変化した環境に順応した生命体となっていくのであり、地上の全ての生物は、こうして自身のうちから不安定なものを敢えて作り出し、それが次の進化の原動力になっている。

だから奇形がなければ生物の進化もないのだが、この奇形はあらゆる形で出てくるため、全てが可能性であり、こうした意味では遺伝だろうが、突然だろうが、障害を持つ人は未来の希望のために生まれた人達でもある。
だから、私たちは彼等に感謝しなければならないのだが、現代社会は表面上の優しさや美しさがあっても、それが現実になると目をそむけ、見ないようにしてしまう。

この大学病院で出会った女性が私に示していたものは性的な衝動だっただろう・・・だが彼女はそれをどうして良いのかが分からなかったし・・・これから先も彼女にその機会があるのかは疑問で、こうしたことは男性の障害者でも同じだろう。
障害者施設で働く職員は、恐らく日々こうした先の見えない問題に直面しながら、働いているはずである・・・が、こうした問題の解決策は無い・・・障害を持つ人にとっては、生き物の基本的な欲望を切り捨てられた状態での生活が余儀なくされている。 私たちは、このことを理解しておかねばならないだろう。

妻の母の診察も終わり、帰途に着いたとき、車の中で妻から、「若い女性によく、おモテになりますのね・・・」といやみを言われた私は、「あららら・・、下を向いて知らん顔してたのは誰だっけ・・」と返し、妻の母はそれを聞いていて笑った・・・妻の母の暫くぶりの笑い声だった・・・。

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