「過去から来た女」

岐阜と愛知県境付近の山林・・・木材伐採に訪れた業者が、少しくぼんだ地形のところで見つけたものは、何と白骨死体だった・・・・、直ちに地元警察は鑑識係を動員、その結果被害者は女性、推定年齢20歳前後、そして少なくとも死後5年は経過していると鑑定された。

自殺か他殺は判定できなかったが、警察は一応他殺の線で捜査を開始した。
まず身元の確認だが、過去5年間に渡って捜索願の出ている20歳前後の女性を重点的に調査したが、聞き込みも含めて有力な情報はなく、書類からも身元が特定されるような資料が見つからなかった。

そして捜査は被害者の歯型から歯科医院での治療歴が無いか・・・と言うことになったのだが、ここで捜査員たちは奇妙な事実に直面する・・・、愛知県内A 町の歯科医院のカルテから、発見された白骨死体の歯型と一致する歯型を見つけたまでは良かったのだが、念のため歯科医院に白骨死体の歯型を見せると「間違いない、私が歯を入れた・・・」と証言、さあ・・・これで犯人に繋がる手がかりが探せるぞ・・・と思った次の瞬間、その歯科医院がとんでもないことを言うのである。

「この患者、平井昌江さん(仮名)は、そう言えば10日ほど前に最後の治療に来ました・・・」歯科医院はポツリとそう言うのだった。
10日前に元気だった女性が、5年前に死亡して白骨になっている被害者と一致するはずが無い・・・、だがおかしなことはこれだけではなかった。
平井さんの身元を洗い、彼女の生前の写真を発見し、白骨死体と照合してみると骨格は見事に一致、また更に彼女はどうも夜の仕事をしていたようだと言う証言から、他の警察署にも確認したところ、「あの女なら白骨死体が発見される2日前、売春容疑で取り調べた・・・」と言うK署の捜査員の報告まで出てきたのだ。

とすると・・・2日間で彼女は白骨になったとしか考えられなくなってくるが、勿論死体は焼けて白骨になったのではなかったし、何かの薬品で溶かされたわけでもない、間違いなく5年間の風化を得ていたのだった。
「そんなバカな・・・この死体は絶対死後5年経っている」警察は死体を何度も精密検査するが、死後5年と言う事実は覆らない、「みんなが会ったとか、K署で調べた女と言うのは彼女の双子か何かで、彼女は5年前に死んでいたんだ」・・・理不尽な現実に、こうした推察を加える捜査員も出て来た・・・が彼女には双子はおろか、姉妹はいなかったことが判明した。

またこうなると、歯科医院のカルテはどうなんだ・・・と言う話も出てきたが、ついには犯人は歯科医で、カルテは捜査を混乱させる為のトリックでは・・・と言う話まで出てきて、捜査は完全に行き詰まり状態になった。
勿論歯科医がカルテを偽造しようがしまいが、K署の捜査員までが2日前に会って話をしている訳だから、歯科医がカルテなど偽造しても意味が無いことが分かるし、そもそも平井さんが自殺だったのか他殺なのかも分からず、こうなると捜査は完全に混乱していったのだが、その後もこの事件の捜査は続けられるも、結局永遠の謎として殺人事件の時効をむかえ、当時捜査に加わった捜査員も「さすがにこの事件だけは、どう言って良いものか・・・」と口を濁して終わることになってしまった。

昭和40年代中頃、実際にあったこの事件。
死後5年の白骨死体、10日前に歯の治療に歯医者を訪れ、2日前にK署捜査員が取り調べ、歯形は本人に一致・・・これをどう説明したらいいだろうか。

彼女は確かに死体になってしまったが、5年前から時間を越えて旅する女になった・・・と言うことだろうか・・・まるで「銀河鉄道999」の「メーテル」か「エメラルダス」みたいではないか・・・。

「大日本帝国憲法」

1889年明治22年、2月11日に発布された大日本帝国憲法が効力を有した期間は、1947年昭和22年、5月3日までの58年間である。
この半世紀に日本は国際社会への台頭と敗戦と言う、1つの大きな生き物が生まれて死んでいくような歴史を辿った。
この大きな生き物こそが大日本帝国憲法とも言え、昭和天皇裕仁の治世はあたかも終焉に苦しみもだえる、この大きな生き物の末期の姿に重なるのである。

大日本帝国憲法は3人の天皇を迎えたが、明治天皇は封建社会の宮廷に生まれ、若年で天皇となったため、明治時代の日本が近代化への道を歩みながらもなお旧時代の名残りをとどめていたのと同じように、明治天皇の周囲も依然として旧時代的な要素が多く残っていた。
大正天皇はきわめて英邁な人であったが、不幸にも病弱であり、その天皇在位期間も短かったが、裕仁昭和天皇は大日本帝国が確固とした時代に生まれ、先の2人の天皇に比べて十分な学校教育、また家庭教師による近代的な教育を受けた。

王または皇帝がその位に相応しい徳を身につけるのは、1つはその置かれた環境と立場、そしてもう1つは側近の進言によって自分で会得するものなのだが、裕仁天皇は、帝王学と言う君主の為の特別な教育を受けた最初の天皇だった。
それゆえに裕仁天皇に関して伝えられる話は、天皇が篤実で、自制心に富む性格だったと言うエピソードが多く、こうした性格と周囲の教育により、天皇は国際社会と平和に対する鋭敏な感覚を持ち、生物学の研究から合理的科学を学び、しかも克己と無私の処世に徹する君主として成長した。

大日本帝国は裕仁天皇をして、近代国家にふさわしい近代的天皇を迎えたのである。
だが、こうした天皇を迎えた大日本帝国は、およそ天皇がその才気を発揮するには程遠い環境だった。
その原因が「大日本帝国憲法」に内包されている・・・、大日本帝国憲法は天皇の親政を強調してはいるが、実際は天皇を政治的に責任の無い立場に置き、天皇の権限は輔弼者の決議によって行使される方式になっている。

これは大日本帝国憲法の利点でもあり、欠点でもあったのだが、天皇を被害が及ばない地位に置くという点では良くても、天皇の名前を使って輔弼者が権限を行使できるという体制は、権力者、輔弼者である臣下もまた、最終責任を負わなくても良い立場にあると言うことだ。
これは明確に欠陥と言われるべきものだが、昭和前半の大日本帝国の歩みは、まさにこの大日本帝国憲法の欠陥が利用される形で進んでいった。

裕仁天皇が即位してからの政界、財界、軍部の動きを辿れば、一方で天皇を神格化しながら、現実には天皇を小バカにしていたような印象が拭い去れない。
こうした意味では大日本帝国憲法下の天皇も日本国憲法下の天皇もあまり変わらない立場だったように思えるが、国民の胸中には天皇の真面目で律儀な姿がその目に焼きついていた。
「天ちゃん・・・・」とは戦時中にも影で言われていた天皇の俗称だが、この呼び方には天皇を軽視すると言うよりは、欲が無く、率直な天皇の人柄に対する国民の信頼感が伺われるように思う。

敗戦により大日本帝国が崩壊していくとき、しきりに叫ばれるのが「国体の護持」だが、この解釈についてはいろんな定義があるだろう・・・しかし乱暴な言い方で申し訳ないが、結局「国体の護持」は「天皇の護持」だったとここでは言わせて貰う。
個人でも国家でもその体制を維持する為には規律の根本となるものが求められる・・・・、国家の場合はそれが政治的イデオロギーであったり、宗教であったりするのだが、日本では個人主義に基づく民主主義の発展は遅れ、大日本帝国時代ではそれに逆行するような形だった。

宗教も国民全体が対象になるものはなく、国教とされた神道でさえ実際には宗教と言うより、一つの精神論だったとしか言えないもので、仏教、キリスト教もそれぞれに分立した形でしか存在しなかった。
唯一継続して安定した存在が「天皇」だけなのである。
だから国民の合意、誰もが何とか納得できる方法を求めるには、政治体制、宗教でもそれを満たすには至らない・・・結局は全て天皇に帰結する以外ない。
調子の良いときは利用し、まずいことが起こるとすがりつく・・・大日本帝国時代に裕仁天皇に示したそうした政治の姿勢は、そっくりそのまま大日本帝国憲法の持つ運命的自滅プログラムによるもの・・・とも言えるのである。

だが、この構図は現代でも変わっていないようにように思う。
おそらく今でも政府が瓦解したとき、国民はやはり天皇を頼るに違いない、またこの国家が未曾有の危機に直面したとき、日本国民は暗黙のうちに天皇と言うものを頼って、その統一性を維持しようとするに違いない。天皇とはそう言う立場なのである。

大日本帝国憲法は権力とその責任の間に隙間があった・・・だからみんな散々好きなことをやって、誰も責任を取ろうとせずに最後の責任を天皇に押し付けたし、天皇はその立場にあったが、こうした構造は今の日本国憲法にも同じものがある。
平和憲法をうたいながら、その実それを担保しているものが無い・・・今迄は何とかごまかしながらアメリカがその役割を果たしてきたが、こうした状態を長く続けていると、またいつか何か大変なことが起こりそうな気がするのである。

「我、礼を以って・・・」

その名前を「丘」あざなは「仲尼」(ちゅうじ)と言い、今から2500年ほど前の中国で「仁」を説き、それを形態として現す「礼」をして国を治めることを世に問うた者・・・・。

孔子が現れた時代は「夏」「殷」「周」と続く王朝の最後「周」がその力を失い、やがて来る戦国時代の幕開けの時期で、こうした周王朝の没落から次の「秦」に至るまでの混乱期にあたり、約500年の前半を春秋時代、その後半を戦国時代としているが、国が荒廃し、あちこちで下が上を殺してのし上がっていく、下克上が始まりかけていた紀元前551年(推定)に、孔子は生まれたとされている。

春秋戦国時代には、力を失って支配力が弱まった周に変わって、周王朝時代の諸侯がそれぞれに国を作り、争っていたが、その各国は富国強兵を競って才能ある者を登用しようとし、また古い身分制度も崩れ、庶民階級にも立身出世の機会が与えられた。
こうした背景から、人々は学問に励み、さまざまな思想家や策士達が現れ、互いに論戦し、自身の意見を採用してくれる君主を求めて各地を遊説したが、彼らを保護し育成する君主も現れ、この相乗効果で「諸子百家」と呼ばれる思想家群が現れ、中国思想の黄金期となっていったのである。

諸子百家の内、もっとも早く現れたのが孔子の始めた「儒家」と呼ばれるもので、その教義を「儒教」と言ったが、春秋時代末期に現れた孔子は、親に対する「孝」と兄に対する「悌」と言う家族単位の道徳から始めて「仁」(人、倫理としての愛)と「礼」(人の守るべき秩序)に基づいてその身を修め、家をととのえることによって国を治め、しいては天下の平和を実現できると主張した。
これは明らかに政治と倫理とを相関させた説であり、彼は始め魯(ろ)に仕えて政治を改革しようとしたが失敗し、諸国を巡り持論を説いたが、結局用いられることなく魯に帰り、「詩経」「書経」「春秋」などの古典の整理と弟子の教育に専念したが、孔子の言動を弟子たちが集めたものが「論語」である。

またこうした孔子の思想は、実は孔子のオリジナルと言う訳ではなく、紀元前11世紀から紀元前8世紀まで続いた「周」王朝の政治姿勢からも同じ思想が見られ、孔子は周王朝時代の「礼政一致」を基に、周王朝時代の思想的復活を目指したと言うのが、初期の姿勢だったのではないだろうか。

ではその周王朝時代の思想とはどのようなものだったかと言うと、歴史上最も古い「封建制度」を引いていたとする「周」はしかし、現実には主に同族の者を諸侯として地方要所に配置し、支配させていたもので、これは血縁による団結力であって、周王朝と諸侯の関係は君臣関係と言うよりは本家、分家の関係に基づくものだった。
したがって中世ヨーロッパや日本における封建制度とは明確に異なるもので、ヨーロッパにおけるフューダリズムは血縁ではなく土地をめぐる契約であり、この場合は君主と個人との契約を指し、こうした形態は日本でも同じだが、農耕経済的には封建制度に見えても、政治的には周の政治形態は封建制度とは区別されるべきものだ。

こう言う背景から周では、政治的に家族、親族をその秩序によって支配することが、重要な政治基盤となっていったことは確かで、「礼政一致」はまさに欠くことのできない思想だったのである。
そして礼政一致とは、こう言うことだ・・・、周が滅ぼした「殷」王朝は信仰として、自分たちの氏族のみを守る神として自然神や祖先神を祭祀し、その神意を占って政治を行ったが、これを「祭政一致」と言う。

これに対して周王朝では氏族の利害を超えて正義の味方をするものとして「天」と言う至上神を崇拝した・・・、従って周の人は道徳的実践としての「礼」を重んじ、礼によって政治を行った。
これを「礼政一致」と言うのだが、礼には精神的な面と儀式的な面があり、後には儀式的な面が重んじられるようになり、これが発展して法律制度が整備されるようになる。

そして孔子が目指した周の礼政一致の思想原理はこうだ・・・、天とは、唯1部族のみを守護するような神ではなく、正義の味方として人の行為の善悪によって賞罰を行う支配者であり、この「天」が人格化したものこそ天子であり、行いの善悪によって、またその徳の高さによって天意すらも動かすことができる・・・。
道徳の実践的表現である「礼」を重んじ、そして政治にこの道徳が形になったもの、「礼」を一致させることで、王は天子と一致し、天すらも味方につけることができ、その結果国は安定し、民の暮らしも豊かになる・・・と言うものだ。

天と神・・・、こうした考え方は後に日本でも大いに広まる考え方で、戦国乱世では「天」が時の覇者を決める・・・従って覇者になれなかった者は、天がそれをはじいたのであって、もともと天意に見合う器ではなかったからだと考えられた。

武力に対して武力では余りにも芸が無い・・・・
こう言う世界だからこそ徳を説き、礼を知らしめる国が1国くらいあっても良いのではないか・・・。
孔子の「礼」は敵も味方も関係ないものだったように思うが・・・どうかな。

「自由民と奴隷」

紀元前8世紀から7世紀・・・つまり今から2700年~2800年前のギリシャ、人口が数千から数十万の独立した都市国家群が緩やかな共同体状態にあった「ポリス」と言う政治状態の中、最大のポリス(都市国家)だったスパルタの市民生活と、ギリシャの奴隷制度から、現代の我々の生活を考えてみようか・・・。

ギリシャ都市国家群の中で最大の人口、40万人を擁したスパルタ、スパルタ教育の語源ともなったこの都市国家の市民生活は、その名を免れぬ厳しいもので、軍国主義的体制は厳しい教育によって支えられ、生まれてから死ぬまで国家への忠誠が唯一最高の目標となるよう、幼少の頃から教育されていた。

男の子が生まれると、不健康児は捨てられ、検査に合格した子供だけ育てられるが、6歳までは家庭で厳しく育てられ、20歳までは年齢別に集団を組み、残酷なほど厳しい体育や軍事訓練を受け、20歳以後も軍事を専門にしていたので、公共生活の時間が多く、私生活の余地は少なかった。
高い教育は施されず、実生活に必要な読み書き程度が教えられたが、音楽と踊りは重要視されていたようだ。

また女子は更に凄まじい話だが、健康な子供を生むために激しい体育教育を受けていたが、不健康児を生めば捨てられることを思えば、こうして健康な子供を生み、捨てられないようにすることが、せめてもの母親の愛情だったかも知れない。
その体育は殆ど全裸に近い格好で行われ、競技種目は競争、相撲、円盤投げ、槍投げなどが含まれ、今日家庭の主婦がたしなむ普通の仕事・・・つまり家事や裁縫、布織りなどは全く教えられなかったが、こうした仕事は奴隷の仕事だったのである。
そして母親ともなれば、自分の息子が勇敢に戦って戦士することを、何よりの名誉と考えるようになっていた・・・と伝えられている。

どうだろうか、こうして見ると市民であることが、奴隷より厳しい生活になっているようにも思うし、自由であることの原則が軍事的思想によって自由選択による不自由の選択になっているようにも見えるが、こうした考え方は全体主義的とも言えるもので、現代でも程度は違っても同じことが存在している。

そして奴隷については、ハンムラビ法典によれば、自由民と賎民、奴隷の区別が見られるが、一般に古代オリエントでは中堅的な自由民の区別が確立しておらず、奴隷と言う身分も不明瞭なことから、古代ギリシャ以来の極端な見方とすれば、自由なのは君主だけで、その他は全て奴隷と言うべきものだったかも知れない。

ギリシャの奴隷の起源については、ミケーネ時代に既に多数の奴隷・・・特に女の奴隷が存在していたようで、これがそれから暫く後の「暗黒時代」に入ると、農耕、牧畜、家事のために少数の奴隷が用いられるようになったが、これは定義として作男か下男、下女に近いものだった。

紀元前6世紀に入ると、商工業の発達に伴い、奴隷の売買が盛んになったが、他方では民主化の改革が行われ、市民の身分が確立されたから、自由民と奴隷との区別化が明瞭になり、本格的な奴隷制社会が出現してきた。
このような奴隷はしかしどうして奴隷になったかと言うと、奴隷の子供として生まれた場合、捨て子を奴隷として育てた場合、海賊にさらわれて奴隷として売られた場合、戦争の捕虜、などの理由で奴隷にされたのであるが、基本的にはギリシャ人を奴隷にするのは不当だとされていたことから、奴隷の大多数は小アジア、黒海方面の異民族が殆どだった。

そしてこうした奴隷の種類だが、国家が所有する「国有奴隷」は公的な雑務を主な仕事とし、その他は家僕と婢女のような、私的雑務を主な仕事とする個人所有の奴隷、手工業奴隷、鉱山奴隷だったが、この内鉱山奴隷が最も過酷で悲惨なことになっていた。

紀元前5世紀中頃のアテネでは、全人口30万人の内、市民とその家族が17万人、在留外人3万人、奴隷が10万人だったとされているが、裕福な人は別として中流市民は、1人から2人の奴隷を使役しながら自分でも労働するのが普通で、これが紀元前4世紀頃になると、数十人の奴隷を使った工場などが現れてくる。
また同じ都市国家でもスパルタではアテネのような形態・・・普通売買での奴隷は殆どおらず、その代わりに多数の被征服民がヘロットと言う農業奴隷にされていて、収穫の半分を主人に納めていたが、ローマではこうした傾向がもっと顕著になり、ギリシャよりもはるかに規模の大きな奴隷制の農業経営が発展し、これは共和政末期にしばしば対外戦争を起こし、多くの異民族の捕虜を奴隷としたからで、この頃ギリシャのデロス島などは、奴隷売買の市場として大いに栄えていたのである。

奴隷と言っても、歴史的に見てみると、面白いことが分かる・・・それは古代ほど奴隷と自由民の差が少ないことだ。
また一般家事や手工業、農業はこうした意味からすると、もともと奴隷の仕事だったような面があり、その地位こそ低くくても今の私たちが考えるような、ムチでバシッと言うような扱いが全てだったとは考えにくい部分がある。

古代エジプトでは、奴隷たちにファラオからビールとパンが振舞われたと言われているし、少なくとも紀元前8世紀頃では、スパルタ市民より奴隷のほうが、実務としては楽だったのではないだろうか・・・。
最も価値観として厳しい責任を誇りとするなら、楽をしている者は屈辱的・・・と映るのかも知れないが・・・。

それにしても、あの厳しいスパルタでさえ、主人に収穫の半分を納めればよかったのか・・・現代の日本人も収入の殆ど5割近くを税金で取られていることを考えると、我々はスパルタの奴隷と変わらないのかも知れず、その上に自由市民として選択した不自由の中にあったりするのかも知れない・・・。
自由民であるか、奴隷であるか・・現代社会ではそれがわが心の内・・・自分がどう思うかの問題・・・と言うことになるのだろうか。

「庚申待ち」

時は徳川将軍様の時代、江戸の町では時々みなで集まり、酒も加減しながらチビチビ飲み、それでいてそろそろ家へ帰るのかと思えばそうでもなく、つまらない話と古女房で朝まで大騒ぎ、方やバクチに興ずる者と、なぜかみんな一晩寝ない夜があった。

これが世に言う「庚申待ち」の夜だ・・・。
江戸時代には一大ブームとなったこの信仰は現在では知る人も少なくなったが、今夜はこの話をしておこうか・・・。

「庚申待ち」とは人間の体内にいるとされる三尸(さんし・尸は屍または何かを司るの意味)と言う虫に話が始まるが、三尸と言う虫は庚申(こうしん・千支で表される日の一つ)の夜、寝ている人の体内を抜け出て、その人の犯した罪や悪行を天帝に告げ口すると言われていた。
そして天帝はこうした三尸からその人間のいろんな所業を聞き、それで人間の寿命を決める・・・一般的にはこうした場合寿命は短くなるのが相場だろうが・・・そう言うことになっていた。

それで庚申の夜、この三尸が体を抜け出し天帝に告げ口できないように、夜は寝ないで過ごす・・・と言うのが「庚申待ち」だ。
だが面白いのは、なぜか人々は悪行や罪を犯すことを止めようとは考えず、虫の告げ口を封じることを考える点だ・・・とても人間らしい考え方に好感が持てる。
この三尸・・・面白い事には1匹ではなく、上、中、下の3匹の虫だと言われていて、上は人の頭にあって視力を奪い、顔に皺をつくり、白髪を増やすとされているが、中の虫は人の腹の中にあり、五臓六腑を傷つけ、また悪夢を見させると言われ、暴飲暴食を好むとされていて、下の虫は足にあって、人から精力や命を吸い取ると言われている。

「庚申待ち」の発想からすると、人間はただでさえこうした三尸によって、いろんなものを吸い取られているのに、その上天帝に告げ口までされて、寿命が縮められた日には生きる時間がなくなってしまう・・・と言うことなのだろうか。
当時庚申の夜はあちこちでバカ騒ぎが起こり、踊り明かし、飲み明かし、バクチや喧嘩三昧・・・また静かにしていると眠ってしまうからと大声で騒ぐ者と・・・ちょっとしたお祭り騒ぎになっていた。

庚申の三尸の発想は恐らく中国の道教にその端を発しているだろうが、この尸は日本の陰陽師達には天文の神とされていて、これ自体は全く根拠のないものなのだが、なぜか天文をつかさどるもの・・・になっている、そして一般大衆の間では疫神の一人と言われている「青面金剛」信仰となっていたり、道教で言う天帝が帝釈天だったり、閻魔大王だったり・・・更には三猿にかけて、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三匹の猿などと混同されていたりで、訳が分からないことになってしまっている。
つまりその地域で独特の風習や、その地域独特の民間信仰と混じって、三尸も天帝も別のものに置き換えられている場合が多く、その結果詳細を説明できる者が誰もいない正体不明の信仰となっている。
また虫は三尸のほかに九虫がいることになっているが、これは三尸九虫三符などの秘符で一挙に祓われることになっている。

三尸の正体は、実は老化、不摂生、と言うものに対する恐れ・・・そしてこれは人間の煩悩、「業」と言うものを指しているように思う・・・が、「庚申待ち」を知らなかった私は、今まで何回の庚申で眠ってしまったのだろう・・・三尸がしっかり仕事していれば、今頃天帝が大激怒しているに違いない・・・。