「不如無知・Ⅰ」

疑いと言うもの、また自分の評判などと言ったものは際限を持たないもので、一度気になりだしたら、どこまでも続く心の葛藤となり、蛾の止まりたる音にすら聞き耳を立て、誰かが何か言うてはおらんかと思うものである。

そしてそれらのことを気にして怒り、人を憎み、また苦しんで、自身も修羅の境地に佇むことになるが、凡そ他人の言葉など、さほどのことはないもので、自身が思うことは他人もまたしかり、言うておるその者自身も既に同じ「場」の中にあり、言わばそうした世界に迷い込んだ者達が、何等の生産も生まないところで、死ぬ生きるの思いをしているものゆえ、鳥瞰(鳥のように上から下界を見る有様)を持って眺むれば、道のはずれで昼寝をするにも及ばず。

今から1000年以上前、この時代は「宋」王朝が中国を支配してたが、この2代目の皇帝は太祖の弟である「太宗」がその地位にあり、この臣下で「呂蒙正」(りょもうせい)と言う人物がいた。

彼はその見識と器量の大きさから、瞬く間に「宋」の宰相(皇帝に次ぐ実務者)へと上り詰めたが、彼が始めて参政の任を受け朝廷に仕え始めた頃のことだ。

さして目立つほどの偉丈夫でもなければ、それほど利発かつ素晴らしい人相でもない、言うなれば見た目は凡人そのものの呂蒙正を、既に朝廷に仕え始めて月日の長い者、また朝廷の内親達は御簾(みす)の影から指差し、こう言ったものだ。

「こんなつまらぬ者が参政とは・・・」

だが呂蒙正はそんな露骨な悪言、囁きをまるで聞いていないかのように通り過ぎていく。

これに憤慨たのは呂蒙正の同僚であり、彼と同じ時期に朝廷に仕えるようになった者たちである。

「許せん、この私がきっと君の悪口を言った者の素性を調べ上げて、散々な目に遭わせてやる」

同僚は我が事のように怒り、呂蒙正の前で息巻いたものだった。

しかし、これを聞いた呂蒙正は慌ててこの同僚に言う。

「君の気持ちはありがたい。だがもし私が彼の素性を知ってしまえば、私は了見が狭いゆえ、きっと生涯忘れないだろう」

「また例え知ったからと言って何になる、彼にまた嫌がらせの一つも言い返すのか、そんなことで人を追い詰めたところで何になろうか、知らずにいた方が良い、その方が得だ・・・」

これを聞いた呂蒙正の同僚は、彼に信服し、それから後、この話はどこからともなく朝廷内に広まり、呂蒙正の器量の広さは皆の知るところとなっていくのである。

不如無知、「宋名臣言行録」

朱子学系の書物の中で、おそらく最も人気があるだろう「宋名臣言行録」、その中にある「不如無知」とは「知らないに越した事はない」と言う意味だが、ここに出てくる呂蒙正の生き方は実に鮮やかなものであり、これを人徳ではなく「得」としているところに、更にその深遠なるものが潜んでいる。

いわんや感情など全く利益にならないものの為に、それを満たそうとする心は、唯、自身の「狭量」な心を満たすだけのものであり、そこからは生産性に繋がるものが何もないばかりか、そんな小さなことにこだわって敵を作り、有能な者との関係をおろかにするは、之罪なりと言うべきものだ。

「説苑」と言う書物の中には、春秋時代、五王の一人として名高かかった「楚」の「壮王」(そうおう)の逸話が残っているが、それにはこうある・・・。

王が久しく家臣を集め宴席を開いたおり、皆で盛り上がっているその時、油が無くなって燭の火が消え、一瞬にしてその部屋が真っ暗闇となった。

さて皆酒が入ってのことである。

一人の家臣がその暗闇にこれ幸いと、酒を注ぎに臨席していた美人、と言ってもこれはもしかしたら王の関係者かも知れないが、彼女をからかって着ている服を引っ張ったが、それに激怒したこの美人、その暗闇の中で服を引っ張った相手の冠の紐を引きちぎった。

さあ、それからが大変である。

証拠を握った美人は王に、今すぐ燭に油をさして明かりを灯して欲しい、そして冠に紐のない者が私にいたずらしようとしました、と言うことになってきたのである。

だがこれに対して壮王は「皆を酔わせたのは自分の責任であるから」と言って美人に詫びると、皆に冠の紐を取るように命じ、これで誰が犯人かは分らなくしてしまった上で、燭に油を差して火を灯させたのである。

そして数年後、壮王は「晋」国との戦争で異様な働きをしてくれる武将がいることを知り、彼にどうしてそこまで死力を尽くして自分のために戦ってくれるのか尋ねると、彼曰く、以前宴席にて美人に無礼を働き、あのままだと私は死なねばならぬところでした・・・と言う話が出てくるのである。

 

 

「不如無知・Ⅱ」に続く

 

「漆器の表札」

日本家屋の玄関に表札が掛かるようになった最も大きな契機は「関東大震災」だと言われている。

日本の大衆が苗字名前を名乗れるようになったのは明治政府の布告によるものだが、これは「徴兵制度」に付帯する便宜上のもので、逓信制度の発足と共に微細乍大衆に普及したものの、基本的には明治初期まで大衆の住所の移動は極めて少なく、為に「家制度」が個人を担保する形と相まって表札の必要性は薄かった。

しかし「関東大震災」で被災した人々が次に家を新築するおり、親族関係者に自家がその場に有る事を知らせる必要が生じ、ここに一気に表札は普及して行ったが、基本的にその後の太平洋戦争に鑑みるなら、そこに横たわるものは名前を名乗れる自由ではなく、政府の個人管理思想が背景にあるとすべきだろう。

一方江戸時代くらいには武家が家の前に表札をかけていたが、ここには苗字しか書かれていなかったのは「家制度」のためで有り、同じく商家には屋号や苗字が表札として掲げられていたものの、この普及は武家が行う経済活動の拠点が上方(大阪)に有って、その上方屋敷には地方からの来訪者も多くなる為、見易く大きな表札や看板が掲げられていたからである。

漆器の表札の出現は比較的浅い。

普及してきたのは太平洋戦争後だが、本来表札など「表の面」に「黒」を用いる事は余りお勧めは出来ない。

日本に措ける「朱色」は「儀式色」の背景を持ち、これが使われる場合は忌み事を含めての特殊性に有り、または補填や手直し、緊急性を意味する事から、表札に漆器が使われる場合は黒色かこれに近い色に限られ、そこに書かれる名前も金色以外の選択が難しくなる。

しかしこうした配色は基本的には「位牌」などの配色であり、同様の意味では石などを使って彫られた表札も、どこかでは石碑や墓標のイメージを脱することが出来ない。

それゆえ表札に付いては日本に措ける歴史的最高色である、神道の「白木」に由来した方が私は良いように思う。

白木に黒墨で書かれた表札には潔さや、特殊性を廃した日常性、謙虚さが伺える事から、過去幾度か輪島塗の表札を作って欲しいと言う依頼が有ったが、以上の理由をして製作をお断りした。

儲かれば何でも有りでは、後々長い目で見れば製作した側も、それを依頼した人もどこかで品性を疑われたり後悔する事になる。

尚、大きな表札は本質的には「千客万歳」である。

ゆえ、商家ではない家では余り大きな表札は品位を失い、同時に分厚い事もまた卑しさを感じさせる為、現在の表札の基本寸法は関東が201mm×83mm、関西が180mm×90mm前後になっているが、大きめにした場合は板の厚みを薄くすると品位が出る。

30mmを限度とし、20mmから25mmが見た人に威圧感を与えず高慢にもならないように思うが、文字は出来ればそれを掲げる本人が墨で書くことが望まれ、この場合白木に直接墨を使うと墨が滲んでしまう事から、先にチョークなどを塗ってその上から文字を書き、乾いたらタオルなどに水をつけて良く絞り、それでそっとチョーク粉末を落とせば滲みの無い綺麗な文字に仕上がる。

ちなみに材料となる白木は「ヒノキ」「欅」などや銘木を用いると良いが、榊や椿などは避けた方が良く、出来れば自家に生えていた木や、自分が所有している土地で生息していた木を用いると良い。

古い言い伝えでは庭の木の背丈が家の屋根を越えると、家の生気が木に負けてしまうとされていて、そこで屋根を越えて伸びた木の枝を切る事があったが、そうした場合に出る太目の枝を用いても苦しからずやと思う。

個人的嗜好では有るが、私は桑の木のあの薄い紫色が好きだから、今度表札を作るときは畑にある大きな桑の木の枝で表札を作ってみたいと思うが、このあばら家で表札のみ立派では如何なものか・・・。

余談だが、古代中国では畑に桑の木が何本有るかが記されている文献がある。

この事から桑の木は財産だった事が解る。

 

「100円」

昭和50年代前半。

輪島の「朝市」はどこかこの時期を境界に「内」から「外」へ変遷して行ったように思う。

ちょうど地元商店街に対し、外から巨大資本のスーパーや百貨店が進出してくるのと同じようなものだが、輪島の朝市はこうした年代に、その地域の朝市から「観光の朝市」に変化して行った。

そしてこうした変化が如実に形として見えてきたのが、金沢から輪島へ向かう列車の乗客の姿、それも観光客ではなく、早朝の列車で輪島へ向かう乗客の変化だった。

石川県七尾市(ななおし)、輪島から50kmほど金沢方面にあるこの町は、輪島・金沢間の中間地点として金沢の会社が能登方面の営業所を置き、能登と金沢の分岐点として繁栄したところだが、七尾市には隣接する石崎漁港(いっさき・ぎょこう)と言う港が有り、実は輪島の台所の3分の1は、この石崎港が担っていた。

輪島の朝市に並ぶ行商のおばちゃんの中には、七尾石崎港から魚や惣菜を運んでくる人も少なくなかったのである。

昭和50年代前半、能登地域を走っていた列車はディーゼル機関車だったが、午前7時前後に輪島に到着する4両編成の列車の乗客の大半は、通学する高校生と七尾石崎港から大きな荷物を二段、三段と積み上げ、それを座席の隣に置く恰幅の良い行商のおばちゃん達だった。

輪島はこの時期漁港としては売上が少なく、同じ能登に有りながら内浦の姫漁港(ひめぎょこう)、宇出津港(うしつこう)、小木港(おぎこう)から見ると大型化に遅れた分だけ大きく出遅れた感が有った。

宇出津を本店とする「興能信用金庫」(こうのうしんようきんこ)の発足のきっかけが、漁師たちが稼ぐ膨大な金をその基盤にしていたことからしても、その規模は伺い知れるが、輪島は元々の性質として「生産」よりも「商い」を文化的な礎としていたのかも知れない。

また港が有るからと言って魚の全てが揃う訳でもなく、例えば九州玄界地方の一部と輪島で多く使われる「あごダシ」、これはトビウオをくんせいにした「カツオダシ」と似たようなものだが、今でこそ能登の特産「アゴダシ」とはなっているものの、その実輪島港では「カツオ」の水揚げが少ない事から代用品として発展したもので、観光化される以前の輪島市の住民に取っては、やはり「カツオ」が主で、「アゴダシ」は代用品だった。

そしてこのように輪島には不足しているものが沢山有った時代、輪島の朝市には遥50kmも離れた石崎港から、早朝5時30分には荷物をまとめて列車に乗り、雨の日も雪の日も路上で食品を売る、七尾石崎港のおばちゃん達が沢山、金沢発輪島行きの下り列車に乗り込んでいたのであり、朝市は多くの地元主婦達で賑わい、あちこちでシビアな値段の交渉の声がこだましていた。

だが昭和50年代半ば、観光を地元産業に発展させようと言う方針だった輪島市は、当時の風潮としては間違ってはいなかったのだろう、観光化に成功し、ホテルは連日満室、ドライブインはどこも人でごったがえし、海は人だらけで、あちこちで民宿が大繁盛する時期を迎えるが、これに比して朝市も観光客を主体とした形に切り替わって行く。

観光と言うものはどこかで麻薬のような魅力があり、それまで苦労して物を運び、シビアな交渉を経て初めて売れていた魚や野菜が、何の苦労も無く売れていく現象を引き起こし、少し景気が悪くなっても値段を上げて行けば、それで回収できる状態を生む。

付加価値なる言葉が日本の中を横行し、怠惰なことや見せかけが金になると考えるようにもなって行き、気が付けばこうした水物を嫌って真っ当な商いとして、輪島の住民を相手にしていた七尾石崎港のおばちゃんたちは締め出され、或いは世代交代から後継者がいなくなり、輪島の朝市から姿を消して行った。

やがて輪島の住民は朝市へ足を運ぶことがなくなったが、その理由は明白で、朝市の食料品その他の価格は市価より30%も高くなっていたからである。

地方と言う小さな社会が閉鎖的な時は、近郊と言う「外」から少しだけ大きな資本が入ってきて、それでバランスの良い競争が発生するが、交通網、通信網の発達はそれまで貧しくとも平穏だった地方に、身分不相応の資本を呼んでしまい、一度それを経験すると元の苦労ができなくなる。

今や観光資源となった輪島の朝市、その影で重い荷物を背負ったおばちゃんたちと、地域住民と言う、貧しくとも継続する資本を失った朝市はどこかでいたわしい・・・。

高校生の時、輪島に着いて列車から降りようとすると、余りにも重い荷物を担ぐことができす、近くにいた私に少し手伝ってくれと一人のおばちゃんに頼まれた事が有った。

私は気の毒に思って荷物の下を持って担ぐのを手伝ったが、おばちゃんは荷物を担ぎ終えると私に100円を差し出した。

金にならぬ労働など当たり前の百姓のせがれである私は、こんな事ぐらいで金を貰えないと言ったが、おばちゃんは笑って私にその100円を握らせ、歩いて行った。

時至って今日、何か有るとすぐに金で即決しようと考える私のその下地は、過日に見た七尾石崎漁港のおばちゃんから渡された100円の厳しさと謙虚さ、その潔さに対する憧れなのかも知れない。

「チェスター・ニミッツ・3」

1909年潜水艦「ブランジャー」艦長に就任したニミッツは、その後長い間潜水艦勤務が続くが、テキサス生まれの闘志と忍耐力を持った彼にとっては、こうした潜水艦勤務は決して肌に合わないと言うものではなかったに違いない。
一見して田舎を想起させる素朴な風貌、決して大声など出さないまじめタイプだが、その割には周囲に威圧感の無いニミッツは部下達からの信頼も厚く、そうしたニミッツのテキサス訛りを聞いていると、どんな非常時でもどこかで「心が静まった」と評するのは、彼の部下だった「レイモンド・スプルーアンス」大将である。
1912年3月のことだった。
ニミッツは潜水艦「スキップジャック」の艦長に就任していたが、その潜水艦が洋上訓練をしていた際「ウォルシュ」と言う二等機関兵が誤って海に転落、波にさらわれた事があった。
ウォルシュ二等兵は機関のカマたき専門で泳げない、ついでに海は大シケの状態でウォルシュ二等兵はアッと言う間におぼれていったが、この高波では誰も海に飛び込めず、ただ祈るしか無い状態となった。
もうだめかと思われたその時、後ろから兵隊達をかき分け、冷たい海に飛び込む男がいた。
チェスター・ニミッツだった。
艦長が二等兵の為に冷たい海に飛び込み、そして自身も溺れそうになりながらもウォルシュ二等兵を助け上げた。
この事件のことはその後全海軍に知れ渡ることとなり、二ミッツの部下思いは大きな感銘を与えたのだが、誰よりもニミッツに感動したのは「スキップジャック」乗組員の内の11名であり、彼等はそれまで出していた転属願いを全て取り下げたのである。
ニミッツの戦争の概念、勝利の概念はその経済性にある。
戦争では全ての敵陣を撃破し、それを入手しようと考えるが、これは戦力の分散になるだけで、必要の無い敵基地はそもそも攻める必要が無い。
その場に置いて敵が負けたと自覚できる基地を落とせばそれで勝利となる。
また敵の近くに自軍基地が無くても、敵が来るのを待てば良いだけのことであり、従って作戦は常に勝利か、最も自軍の損耗が少ない形を実施すれば、それが勝利とはならなくても勝利と同じ効果を持つ。
ニミッツは太平洋戦争中一貫してこの方針を貫くが、こうした有り様は日露戦争の日本海軍でも同じ思想があった。
すなわち全ロシアを征服しなくても、何をすればロシアに勝つことになるか、これを正確に読み取ったところに東郷平八郎や日本の為政者の勝利があり、こうした思想の反対側にあったものが太平洋戦争時の日本軍だったが、二ミッツはこうした日本軍でも評価すべきものは戦争終結後の回顧録で評価している。
その一人は日本海軍最後の連合艦隊司令長官となった「小沢治三郎」に対するものだが、チェスター・ニミッツは彼をこう評している。
「勝った指揮官は名将で、負けた指揮官は愚将だと言うのは、何も知らない者の評価に過ぎない。指揮官の成果はむしろ彼が持つ可能性にある。敗軍の将と言えども、彼に可能性が認められる限りは名将である。オザワ提督の場合、その記録は敗戦に次ぐ敗戦だが、彼はその敗北に中に恐るべき可能性をうかがわせている。恐らく彼の部下達は、彼の下で働く事を喜んだに違いない・・・」
晩年チェスター・ニミッツは一つだけ心残りがあると語っていた。
「東郷提督の後輩達を相手に日米艦隊決戦で戦って見たかった、自分が手本としたものを超えることができたのか、それを知りたかった・・・」
グァムで陸上から指揮するニミッツ、大砲を撃ち合うような日米艦隊決戦はついに訪れなかったが、もしそのようなことがあったなら、彼は必ず艦隊に直接乗り込んで指揮を振るったことだろう。
敗軍となった日本海軍、しかしそうした中でも評価すべき者はしっかり評価し、敬意を払った数少ないアメリカ軍人、チェスター・ニミッツ、あなたが求めたものと、私が求めているものは全く違うものかも知れない。
だがあなたはどう思われるだろうか・・・。
日本とアメリカの関係はこれで良かったのかどうか、これが命がけで祖国の為に戦って得るべき、それぞれの国家の有り様だったのでしょうか・・・。

「チェスター・ニミッツ・2」

ニミッツが司令長官としてハワイに立った時、彼に与えられていた軍からの作戦は、日本軍が攻めてきたら応戦しなければならないが、そうでない場合はこちらから攻めるな、と言う中途半端なものであり、友や尊敬する者を失ったアメリカ軍将校としては、「何としてもこの借りは返したい」と思う気持ちがあるのは当然であり、ここで指揮官は最も辛い板ばさみとなるのだが、ニミッツはこの場面で面白い訓示をしている。
着任早々将校クラブへ顔を出したニミッツは、そこで意気消沈して肩を落とし、あるいはやるせなさからテーブルを叩く将校たちを前にこう語りだすのである。
「諸君、オラが新しい司令長官だなや、オラは何で海軍に入ったかと言うとな、初めてエビを見たときにたまげたもんで、それでオラはエビが海の王者だと聞かされたもんで、海軍に入った」
「オラ、エビが大好物になったんで、よしそれでは海軍に入って海の王者と言う奴をつかまえて、たらふく食ってやろうと思ったんだな、これが・・・」
余りにも異様な訓示ではある。
ニミッツはもともと少しテキサス訛りがあったが、この訓示ではそのテキサスの田舎訛り丸出しで、将校たちの前で語り始めたことから、将校たちは始め何か慰安の為のアトラクションかと思ったが、やがてこうしたズーズー弁の語り口と、いかにも田舎臭い男の話にどっと爆笑がおき、拍手が起こってくる。
こうした将校たちの反応にニミッツも微かに笑みを浮かべる。
だが次の瞬間、二ミッツは一瞬にして厳しい目つきになったかと思うと、また話を続けた。
「エビは体のカラが生え変わるときは、岩の間に入ってじっとしているもんらしい」
「諸君、オラたちの情勢は悪い、それは分かっておる、オラたちはエビだ」
「今は甲羅が生え変わるのを待たねばならない、そして硬い新しい甲羅はできるだけ早く生え変わらねばならない・・・」
「戦いには時と言うものがある。そしてその時が来るまではじっと潜んで耐えなければならない時がある」
「諸君、我々の今がその耐える時であり、この時があって初めて合衆国の勝利があるのだ」
もう誰も笑う者はいなかった。
拍手すらも起こらなかったが、そのかわり将校たちは皆椅子から立ち上がり、また靴のかかとを鳴らして姿勢を正し、この新しい提督チェスター・ニミッツに敬礼した。
そしてそれから後のアメリカ軍の活躍は歴史がそれを証明しているが、破格な規模を誇るアメリカの工業は、確かにこの真珠湾攻撃の前後までは出遅れていたが、一度動き出すとその回転は素早く、後方の物資生産が軌道に乗ったアメリカは、瞬く間に真珠湾攻撃の屈辱を取り戻して行った。
1905年(明治38年)、この夏アメリカ海軍兵学校を114人中7番の成績で卒業したニミッツは、アジア艦隊の軍艦「オハイオ」に配属され、アジア方面練習航海に出たのだが、このとき横須賀に到着したニミッツたち士官候補生の代表や士官達は、「日露戦争祝賀園遊会」に招待された。
その園遊会には多くの日本の将軍、提督たちが集まっていたが、ニミッツ少尉候補生やアメリカ海軍士官が皆探し求めたのは「日本海海戦」の名将「東郷平八郎」提督の姿だった。
「日本海海戦こそ、洋の東西を問わず海戦の手本であり、教科書と言えるものだ。私の生涯はこの手本をマスターし、いつかこの手本を越える戦いをしたいと言う念願が常に有った・・・」
後年こう述懐するニミッツ、それゆえ園遊会の日、東郷提督がニミッツたち少尉候補生が座っているテントに近づいたとき、二ミッツは思わず立ち上がり、興奮して顔を赤らめながら東郷提督に敬礼すると共に、こう叫んだのである。
「東郷提督閣下、我々はアメリカ合衆国海軍少尉候補生であります。もし僅かでも閣下のお時間を頂けまして、我々に教訓をお与え下さるなら、我々の無上の光栄と喜びです」
これを聞いた東郷平八郎は一瞬立ち止まり、その長身の若者を見上げたが、この若者が後に東郷の後輩達や日本海軍を撃破する、アメリカ海軍屈指の指揮官になることは予想もできなかったに違いない。
またニミッツも将来そのような運命が用意されているなど全く考えもしなかっただろう。
しかし面白いものだ、この青年に何かを感じ取ったのか東郷平八郎は副官に何か小声で告げると、ニミッツ達のテントへ入ってきて話を始めたのだった。
興奮していたニミッツは、このとき東郷が何を話しているのかを後にすっかり憶えていなかったが、それでも東郷がテントに入ってきてくれた時の感動は、生涯忘れたことは無かったと言う。
どうだろうか、こうして考えれば随分皮肉なものではないか、東郷の精神やその作戦のあり方は、彼に憧れたアメリカ海軍の二ミッツに受け継がれ、その反対に最も東郷の作戦やその精神を学んでいなければならなかった日本海軍はこれを怠り、それゆえ日本海軍は、その元祖である東郷の精神によって敗れる事になったのである。
またニミッツと東郷平八郎は、どこかで合理的な説明ができないような縁があったようだ。
1934年、ニミッツがアジア艦隊旗艦「オーガスタ」の艦長に就任していた際、やはり偶然に日本に寄港したおり、このときは東郷平八郎の「国葬」が行われていて、この国葬にもニミッツは参列している。
                       「チェスター・ニミッツ」Ⅲへ続く