「ばり弟子」

一般的に「バリ」と言う言葉は「不必要なもの」を指していて、例えばこれが機械金属加工業で有れば、加工した必要部分の外のはみ出した部分、つまり後には削り取られて廃棄される部分を指し、塗装業でも実際に必要な塗装面から外れて塗られてしまった部分を指し、これは言い変えれば「余分なもの」「邪魔なもの」「面倒なもの」と言うことになるが、もう一つ地方によっては「小便」を指す言葉でも有る。

例えば雄猫が自分の勢力範囲を示すために行う「マーカー」なども、地方では「猫が小便をかけて行った」とは言わず、「猫にバリをひっかけられた」と言う地域が有る。

この場合「バリ」と言う言葉は、前者の金属加工業や塗装業で使われる「バリ」よりも、更に積極性を持った「面倒臭さ」を表現していることになるが、その一方でダイレクトな状況から使われる「バリ」と言う言葉が有る。

輪島塗の世界では複数の弟子が塗師屋(ぬしや)と言う漆器製造会社、大体が家内制手工業の範囲だが、そこへ入門する事になり、ここでは年齢の別なく、先にに入門した弟子から順に立場上の優位性が認められていた。

従って能力、年齢を問わず、先に入門した弟子ほど弟子の中でも大きな権限を持っていて、この中での縦の関係は絶対であり、それは終生、例え職業を代わってしまったとしても適応される厳しいものだった。

また、輪島の塗師屋は鳳至(ふげし)地区と、河井(かわい)地区と言う、輪島川を挟んで分かれる地区のどちらにも存在していたが、輪島という地域自体が港に面した狭い地域が発祥になっている事から、住宅が密集していて広い邸宅や工場が作れない事情があった。

それゆえ特に漆器産業が華やかなりし頃、膨大な資産を形成した塗師屋の親方は邸宅や工場を拡大するおり、間口を横に拡大する事が難しかった事から、縦方向に拡大する傾向に有り、これが塗師屋独特の家の作り方である、縦長のうなぎ屋敷が多くなって行った所以ともなった。

権勢を誇る塗師屋ともなれば一つの細い通りの全てが自家と工場だった例もあり、そうした通りにはその塗師屋の「えめ名」、屋号がその通りの名前になっている場合もあった。

そしてこうした塗師屋の家の作りは、玄関が有って工場、その奥が親方の家と言う場合と、これが反対になっている場合が有ったが、いずれにせよここで2つのトイレを作る事ができず、大体どの家も長い屋敷の中央部分にトイレを作っていたものだった。

だがこれだと例えば外から来た余り親しくない客も、トイレを使うときその塗師屋の親方の家庭生活空間まで行って、用を足さねばならなくなる。

このことから自毛の生活空間を他人に見られたくない親方の事情と、奥まで行ってトイレを使う事に抵抗のある客の、両方の事情は玄関に簡易トイレを置く風習を生んだのであり、ここで簡易トイレと言えば聞こえは良いがその実態はただの木の桶であり、客や親方が工場などで話していて尿意をもよおした時は、玄関のこの桶で用を足す風習が定着してくるが、この簡易トイレはよほどの事情が無い限り女子供、弟子などが使うことは許されていなかった。

さてそこでだが、実際にこうした長屋形式の住宅で、玄関にも簡易トイレがあるのは便利な事ではある。

しかし問題はこれがただの桶と言う点だ。

当然この桶に小便がたまってくると誰かが棄てに行かねばならなくなり、一体誰がそれを棄ててくるかと言う問題が出てくるが、ここで登場してくるのが「バリ弟子」と言うものだ。

前述したように、こうした一軒の塗師屋と言う社会の中で最も地位が低いのは誰かと言うことだが、それは弟子であり、しかも後に入った弟子ほど地位が低い事から、普通、簡易トイレの小便を棄てに行く役割は一番下の弟子だった。

それゆえ輪島塗の世界では一番下の弟子を「バリ弟子」と言ったのである。

これはとても酷な事では有ったが、一番下の弟子は朝9時頃、それに工場が閉じられる午後6時前後、客が多ければ小便がたまった時点で輪島川までこれを棄てに行かねばならず、これが冬季ともなれば寒く、夏季は臭いがひどく、しかも余り多くためてしまうと重い事は勿論、しぶきが跳ね上がる事から、頻繁に様子を見てお置かねばならなかった。

更に輪島の徒弟制度の上下関係は絶対的なところが有った事から、弟子修業中は勿論、一人前になっても弟子兄弟が集まった席で、この一番下の弟子が何か偉そうな事でも言おうものなら、すぐに「何だとこのバリ弟子が・・・」と兄弟子から言われるのである。

塗師屋と言う言葉はその工場を経営する親方を指していたが、その一方で漆器産業以外の職業の人に取っては、漆器産業に携わる人全般を指す言葉でも有った。

ゆえ、塗師屋の道は職人の道と商いの道が有り、弟子はその両方を親方のところで学ぶのだが、こうして不利な中で理不尽な目に遭いながら修行した「バリ弟子」は、やはり技術よりもその仕組みに対する頑張りが強かったに違いない。

また、塗師屋の中でもこうした「バリ」の始末を弟子にやらせない所も有ったが、そうした塗師屋ではどうなっていたかと言うと、親方の妻、「おかみさん」がこれを始末していたのであり、こうした塗師屋のおかみの有り様によっても、「やんちゃくさい」(気性が雑な)弟子が育つ塗師屋と、温厚な弟子が多い塗師屋の区別が出来て行ったのである。

 

 

「アイスクリームの差し入れ」

「供給はそれ自らの需要を創造する」

これは「セイ法則」と言う考え方だが、この考え方で行くと、全ての市場に供給された「物」は、「価格調整」によって全てが需要される、つまりは値段の上下で調節すれば、何らかの形で「物」は消費され、また在庫としての投資がなされ、結果として経済全体を考えるなら総供給と総需要は一致する事になる。

また需要と供給は生産と言う面から見れば、雇用も同じ事が言え、ここではもし大きな不況社会となり、社会が大量の失業者で溢れた時は、これも労働市場の価格を下げる、すなわち労働者の賃金を下げれば、全ての失業者は雇用にありつける事になるが、実際はどうだろう。

これに対して「 J.M.Keynes ,1883-1946 」(ケインズ)は総供給量が総需要を上回るときは、価格ではなく生産量が減少すると言う「数量調整」が働くとして、総供給が総需要を決定するのではなく、総需要が総供給を決定するのであり、公共投資などによって需要を増大させれば供給も増大し、失業も減少すると言う理論を展開し、総需要と総供給が一致する時の需要の状態を「有効需要」と呼び、この有効需要が生産や雇用を決定すると言う「有効需要の原理」を世に知らしめた。

そして1920年代から始まってきた世界的な不況、決定的だったニューヨーク発の世界恐慌の克服策として、それまで「セイ法則」が支配的だったアメリカ経済界の考え方を改め、ケインズの理論を取り入れたのが1933年に合衆国大統領に就任した「フランクリン・ルーズベルト」であり、彼の「ニューディール政策」はまさにこのケインズが言う公共投資による経済、雇用の拡大を狙ったものだった。

しかし現実にはどうだったかと言うと、結局アメリカは1930年代には雇用状況を改善するに至らず、また経済もその生産は落ち込む一方だったが、それを事実上救ったのは第二次世界大戦だった。

世界的な緊張状態によって発生してきた軍事産業が大幅な需要を引き起こし、これによってアメリカの経済はかつて無い繁栄を誇って行った。

またケインズの理論、ルーズベルトの「ニューディール政策」は、もう一方の側面として完全自由市場だったアメリカ市場経済に初めて政府が介入した、すなわち自由主義経済に社会主義経済的干渉を行ったと言う事実が発生し、これ以降どうなるかと言うと経済的な落ち込みが発生すると、民衆や経済界は政府に何らかの対策を求めるようになって行くのである。

つまり、今日世界的な傾向ともなっている経済の社会主義化は実はこのときから始まったものであり、こうした経緯からケインズのマクロ経済学を考えるとき、彼の経済学は計画経済型、社会主義的経済観、もっと言えば運命逆算型経済論だったと言えるのではないだろうか。

だが実際の需要と供給の関係は、現在どう推移しているかと言えば、限界までは「セイ法則」、つまり価格調整が働き、そこから先はケインズの理論、「数量調整」が働くと言う二重底の様相を呈してきている。

それゆえ現在の世界経済は限界の下の限界を迎えているようなものであり、これを救済すべく各政府が全力を上げて公共投資を増やせば、更に経済は社会主義化し、民衆や経済界の動きは益々縛られ、その事がまた経済的な停滞を生むと言う、経済降下スパイラルに陥っている。

ケインズの経済理論は素晴らしいものだった。

だが彼は大切なことを忘れていたようだ。

確かに人間の社会が常に健全なものであれば、また景気の後退が単純なものであれば、彼の理論は成立しただろう。

しかし実際の社会、経済には「人間の不健全性」と言う数値を加味しなければ求められない数値が存在し、それが政府の財政出動と相乗効果的に経済的失速を発生させることを想定していなかったが、彼は責められるべきではないだろう。

経済の失速はこの「人間の不健全性」に加速をつけ、更に政府が行う景気対策としての財政出動がこれに追い討ちをかけて社会を共産主義化していくなど、結果として現れなければ到底想像もできないことだった。

ただ原理としては簡単な事であり、例えばやさしい経営者がいて、少ない従業員を大切にしていたとする。

今年のような暑い気候が続くと、経営者として額に汗して働いている従業員を見るにつけ可愛そうに思い、ある日従業員全員にアイスクリームを差し入れたとしようか。

当然のことながら暑い日に差し入れられたアイスクリームに従業員は大いに喜び、経営者に感謝するが、こうした有り様にきわめて健全な従業員との関係に感激した経営者は、次の日もまたアイスクリームを差し入れ、そのまた次の日も差し入れると言うことになって行き、一定の期間それが継続して行ったとする。

そしてある日、風邪でこの経営者が寝込み、その日はアイスクリームの差し入れができなかったとき、従業員はどう思うだろうか。

「どうして今日はアイスクリームが届かないんだ」

「何だ、今日はアイスクリームはどうした?」

と、このような声になってくるが、これが「人間の不健全性」と言うものであり、当初まったくの善意で始まった差し入れは、何回か繰り返される間にどこかで当然の事になり、それがあたかも権利のように錯誤されるようになる。

皮肉な結果だが、可愛そうだ、良かれと思って始めた差し入れは、最後には従業員の人間的不健全性を招く結果となるのである。

そしてこれはまだ経営者の善意だから、そこまで大事ではないが、これが国家と国民、国家と経営者の関係であり、なおかつ暑さが大不況だったらどうなるかを考えると、現在の世界経済の有り方が良く理解できるのではないだろうか。

「大恐慌」と言う暑さに、初めて公共投資と言うアイスクリームを差し入れたルーズベルト、その後世界各国政府は不況と言う暑さが訪れるたび、民衆に公共投資や財政出動と言ったアイスクリームを与え続け、このことはやがては本来自分で頑張って経営していかなければならない会社経営者や、自分が働いて何とか生活を維持しなければならない一般大衆に、緩やかな擬似権利を錯誤させた。

すなわち不況は政府のせいだ、政府が何とかしなければならない、国民を食べさせるのは政府の義務だ・・・、と言うような形が現れ、これは既に考え方として社会主義なのだが、形式上民主主義を標榜している国際社会では、殆どの経済的先進国が主権在民を建前としているため、こうした擬似権利を、権利と錯誤した民衆の代表、つまり代議士などが選挙で選出されやすい社会となっていき、国民に媚びへつらう政府は益々財政出動を増加させ、そのことが更に国民が持っている擬似権利感をより権利に近づけたような錯誤を加速させる。

そしてここまで来ると、もはや自助努力ではどうにもならない経済界や民衆は、更なる経済対策を求めるが、もはや財政的に破綻寸前になった政府は、前出の小さな会社の経営者の話に戻すと、従業員から金を借りて、それでアイスクリームを差し入れるしか方法が無くなる。

これが日本経済と、政治の現状である。

 

「弟子検定」

1945年、昭和20年まで輪島漆器商工業協同組合(以下漆器組合と表記する)では、その年の春までに年季修業を終えた弟子たちの習熟度を量る「検定」を行っていた。

一般的には「品評会」と称されたこの制度は、輪島塗の下地付けの速さと仕事の美しさを競うもので、輪島塗の基本である「丸盆」「椀」「お重」をおおよそ1時間の間にどれだけ仕上げられ、かつその精度は如何かと言う基準で組合員入札に拠る審査が行われた。

こうした制度がもたらした効果は、例えば弟子を育成する親方にしても、少なくとも丸盆と椀、それにお重くらいの仕事ができなければ、「品評会」で親方のメンツにも拘る問題となり、丸盆と椀とお重が仕上げられれば、他の仕事は大方こなせる事から、親方の指導怠慢を防ぐ効果が有った。

また弟子にしても、こうした目標に向けて努力する事が出来たが、一方では厳しい技術選別をもたらし、ここでの成績はその後の職人の一生を支配する、重要な職人としての地位決定制度でもあった。

すなわちこの検定で優秀な成績だった職人は、その後輪島の中では大きな評判となり、やがて独立しても仕事が集まり易く、工賃が上がる傾向に有り、この検定で成績の悪かった職人は大きな評価が得られない為、仕事が少なかったり工賃が易いなどの傾向が有った。

それゆえこの検定は親方、弟子共々その力量が問われる性質を持ち、かつどちらにとってもその後の評価に影響する為、親方も弟子も必死の形相で検定に挑んだのであり、この制度の事実上の目的は狭い輪島と言う塗りの世界で、その各々がどこに位置するかを決定する、ある種の棲み分け制度だったとも言えるのである。

全体が公平には生きられない。

しかしその不平等の中で生きられない者を作らない制度だったとも言え、技術の高い者だけが生き残れるのではなく、工賃を下げれば技術水準が低い者もしっかり仕事ができ、その上で努力すれば経済的に成功したり、或いは長い年月の間に高い評価を得る事も可能だった。

我々は一般的に高い技術が有れば、それで目標が達成できたかのように思ってしまうが、高い技術は一つの道のりであり、全体の中では一部にしか過ぎない。

輪島塗の検定でも、これで高い評価を得て慢心し、その後没落した職人は何人も存在し、反対に検定での評価は低くても努力して経済的に成功し、その技術レベルも神の領域に達した者も存在する。

高い技術レベルで良い仕事をし、評価を得ても、そこで得られる報酬は一件が高くても数が少なくなる。

一方で安い仕事でも数が大量に存在すれば安定した報酬が得られる事になり、このどちらが良いかの価値基準は個人に拠って異なるだろう。

昭和58年、私は花器の下に引く「水板」、長方形の小さな板だが、これを専門に塗っている職人に知己を得た時が有り、彼は年季明けした塗師屋の家柄から私を高級な仕事をする者と持ち上げ、そして自身を安い仕事しかできない職人で、自分のようにはなるなと言ったが、彼は2日で水板500枚を仕上げ、その仕事も大変綺麗な仕事だった。

一枚100円でも500枚有れば50000円である。

彼は材料費を引いても1日2万円を稼いでいた訳であり、その仕事の精度も私などが及ぶものではなかった。

若かった私は確かにその当初、この職人の事を下に見ていた。

だがその仕事を見たとき、「高い技術とは何だろう」と言う疑問が自身に生じた事を記憶している。

高価な材料を使い高価な道具で、整えられた環境で良い物が作れるのは当然だ。

しかし安い材料、それを如何に多く使わないかを考え、高級な道具も使えずに、より多くの数をこなし、その上で高級な仕上がりと遜色のない仕上げにするのは、あらゆる意味で高級なものを使える良い仕事より遥かに難しい・・・。

自分は二流職人だから、自分のようにはなるなと笑ったこの職人・・・。

私は生涯彼を心の師匠とし、そして彼が生きている間ご夫婦共々お付き合いをさせて頂いた。

「にいさん・・・」、彼も彼の奥さんも私をそう呼んで色んな事を教えてくれた。

20年ほども前、私は号泣しながら彼の遺体の上に塗師小刀を置いた・・・。

ちなみに漆器組合の弟子検定は1945年、昭和20年の太平洋戦争終結後の混乱で途絶え、今に至ってもこの制度は復活されてはいない。

おそらくこれから先も復活されない、消滅した制度となるだろう。

 

「アポカリプス」

聖書中の「福音書」を「Evangealion」(エヴァンゲリオン)と呼び、「黙示録」の事を「apocalypsis」(アポカリプス)と呼ぶが、これらの言語は共にギリシャ語にその起源を持つものの、その発生時期は異なり、アポカリプスの方が古い起源を持つ。

すなわちアポカリプスはユダヤ教を起源とするが、エヴァンゲリオンはキリスト教を起源としていて、アポカリプスは主にギリシャ語を話せるユダヤ人に対して書かれたものが、キリスト教にも受け入れられて行った経緯がある。

そして興味深い事は「福音書」では、その多くが「希望」に付いて書かれ、一種仏教で言うところの経文のような性格を持っていたにも拘らず、「黙示録」では「絶望」に付いて書かれている点にある。

エヴァンゲリオンもアポカリプスも、基本的にはギリシャ語では「希」を概念させながら、その両者は極端に相反したものを指していて、同じ「希」がエヴァンゲリオンでは勝利や良い事を指しているのに、アポカリプスでは悪い方向の「希」を指し、こうした事はユダヤ教、キリスト教だけでは無くイスラム教にも浸透していて、その教義の中では根幹を為す部分を占めている。

アポカリプスとは「何かの覆いを外す」、若しくは「隠されていたものが暴露される」事を意味しているが、人間には預かり知らぬ神の国の事が示されると言う事であり、その内容の多くは「絶望」である。

「古来善と悪の戦いが有って、現在は悪がこの世を支配している」

「やがて神はこの悪の世界を一掃すべく、審判の日を生じせしめる」

多くのアポカリプスではこのような内容が基底となっていて、例えば新約聖書中の「ヨハネの黙示録」などは明確にダニエル書の引用発展なのだが、その事実を考えるなら、アポカリプトの出自は更に深い歴史を持っている可能性がある。

紀元前500年以上前のアケメネス朝ペルシャで、政治にまで深く浸透していたとされる「ゾロアスター教」、この教義の中には「光と闇の戦い」の話が出てくる。

結果としてゾロアスター教では「善」が支配することになってはいるが、一方で悪は「偽」や「死」を支配している。

また古代バビロニア、アッシリアでは「ギルガメシュ神話」に見られるように、既にユダヤ教、キリスト教の創世神話と同等のものが信奉されていた形跡が有り、その中にはアポカリプスに似たような記述が残されているが、その延長線上にはシュメール文明がある。

おそらくこの文明が成立したのは紀元前8000年以上前だろうと思われるが、紀元前3500年頃から始まったとされる文字、「楔型文字」が残されていて、この中にはとても不思議な記述が残っている。

「涙、悲嘆、憂鬱、激しい痛みが私の周りにある」

「苦痛が私を支配する」

「邪悪な運命が私を捕まえ、私の一生を亡きものとする」

「悪い病気が私を侵していく」

「なぜ私が無作法者として数えられるのか」

「食べ物は全て揃っているのに、私の食べるものは飢餓だけだ」

「分け前が割り振られたその日に、私の分け前が損失を被った」

これは2人の男性の記述だが、どうして彼らはこうした事を記述しなければならなかったのか、更には近年カナダでこの古代シュメール語に関して、それがシュメール語であるかどうかも分からず、言語学者にシュメール語の解読を依頼した女性精神科医師は、子供を連れ去られた上、人類は「絶望」だと言うコメントを繰り返した。

もともとシュメール文明は謎の文明であり、紀元前5000年頃の文明はセム語を話していたが、この時期を「ウバイド文化期」と呼び、その後紀元前3500年頃から紀元前2350年頃までは「ウルク文化期」、そして紀元前2350年頃からは「アッカド王朝」が成立していくが、シュメール文明の特徴である「ウルク文化期」のみがシュメール語を話すシュメール人の時代である。

そしてこのシュメール言語の口語発音は独立言語であり、シュメール人は自身の事を「混じり合わされた者」と呼んでいる事、更には人種的骨格が周囲のセム語族と同じ事から、或いは言語学的文化区分になるのかも知れないが、地球上かつてない言語形態を持っていた。

また彼らの文明は言語だけでは無く、地理的隣接地や時代的隣接文明とはどうしても異なるものが有り、そのひとつは女性の地位の高さである。

流石に男性優位は変わらないが、周辺文明では女性が奴隷と同じ扱いだった事からすると遥かに現代的で有り、なおかつ「目には目を、歯には歯を」の等価懲罰思想が存在していない。

その彼らが描く未来と言うものが、経った2人の男の記述で判断する事はできないとしても、どうしてこうも悲観的なのだろう。

そして私たちが見ている希望とは一体何なのだろう。

もしかしたら私たちは一度も叶えられた事などない平和や幸福を夢見つつ、その本質は「絶望」なのかも知れないと、私は思う時がある。

だがその「絶望」で有るがゆえに、今日私たちは宗教観を持ったのではないだろうか。

ヨハネのアポカリプスには終末の日、それは大天使ミカエルが吹くラッパの音から始まると記述されていて、ここ2年ほど世界各地で音源が無いにも拘らず、大きな悲鳴のような、はたまたジェット機が墜落するような大きな音が聞こえたと言う報告が出てきている。

ちなみにシュメール語の特徴は、一つの発音で多くの意味が異なるものが表現される事だった。

例えば「渡す」と言う言語一つでも、人にものを渡す、或いは橋をかけることまで、状況によって意味が違って行く日本の言語、言語学者の中にはシュメール語と日本語に共通点を指摘する者も少なくない。

 

 

 

「不如無知・Ⅱ」

小人の謙虚と大人の謙虚にはおよそ対極的な差がある。

小人の謙虚には裏があり、二面性があるもので、例えば小さな町の商店主なら、店にいるときはまことに平身低頭なのだが、それが商工会の集まりともなれば、「俺こそは・・・」になってしまう者がいる、あの空虚な謙虚さである。

だが大人ともなればそうは行かない、およそ会う者全てに謙虚でなければ、それは大きな仕事をなし得ない。

ゆえに小人ほど傲慢になり、大人ほど謙虚なものなのである。また貧しきものはそれを隠そうとする。

それゆえ本来は無意味かつ、身分不相応な「人並み」を他人に対して示そうとするが、そんなことをしている時間があったら、しっかりと働き、それを蓄えるのが本当の意味での貧しさの脱却となるのであって、これは心の貧しさ、知識の貧しさも同じである。

いわんや、心貧しきものほどそこに「徳」を見せようとし、知識のない者ほど知っていることを示そうとするものである。

餓鬼とはそうした名の鬼のことではない。

幾ら食べても、眼前に山のように食べ物があっても「まだ足りない」「まだ足りない」と思うその心の浅ましさを指したもので、言わばこれは状態を示しているのである。

だからこの意味に措いては人間世界の全ての場面で「餓鬼」は存在し、それは人から愛されたいも然り、金が欲しい地位が欲しいも然り、人から良く思われたいもまた然りだ。

高価な外国製のスーツに身を包み、黄金の時計をしている者の自信は極めて浅くて脆い。

なぜならこうしなければ信用がなかったり、自信がないのであれば、それは金を持っていると言う状況が、表面上通用する世界だけのものだからであり、決してその人物が敬服されているのではなく、「金」に対して人が服従しているに過ぎないからである。

同様に他人から評価を得ようとして頑張る者の、その評価を何に使うのかが「自己満足」や「自己顕示欲を満たす」である場合は、そこに存在するものは容赦のない「餓鬼の道」となる。

人から褒められたから、反対に批難されたからと言って、それで自分の何が変わるのかと言えば、何も変わらず、これが尊敬された、軽蔑されたからと言って何が変わるものでもない。

人の怒りや、不満と言うものは感情であり、所詮は相手が謝るか、自己主張が通るかで消失してしまうものだ。

だが言葉で人に勝ったとしても、そこから生まれるものは、もしかしたら相手の「恨み」かも知れず、「敵意」かも知れない。

散々時間を使って、自分はすっきりするかも知れないが、そこから生まれるものが、およそ自分の望むものとは逆のものでしかないなら、それは無駄以外のなんでもなく、未来に措ける禍根でしかないとしたら、自分の気がおさまらない事くらいは目を瞑ろう、また人のことを詮索して、そこから更に悩みが増えるなら、知らずにいた方が無駄に苦しまずに済む・・・、これが「不如無知」と言うものである。

そしてこれが決して人間的「徳」ではなく、利益の「得」の為としているところに、この言葉の深さがある。

私も呂蒙正ではないが、了見が狭いゆえ、知って無駄に苦しむのは辛いのではないかと思う・・・。