「ユダの福音書」

イエスは裏切り者を指摘された・・・、ユダは誰にも嫌疑をかけられないよう巧妙に秘密を保っていたが、イエスが自身の秘密を知っていることをユダも知っていた。
イエスは12人の弟子たちに最後の別れをされた・・・、ユダは去った・・・。

レオナルド・ダビンチの最後の晩餐は有名だが、イエスの12人の弟子の1人ユダは、銀貨30枚でローマの官憲に密通してイエスを彼らに引き渡してしまう。
そしてこれからが不思議なのだが、イエスを裏切ったユダはその後首をつって死に、その金はユダが死ぬ前に司祭に返しているのである。
そこにあったものは良心の呵責であったのか、イエスと言う偉大な存在を失った悲しみだったのかは分らないが、ユダは早々に自殺している。

だがこの話は何となく不自然な箇所がある。
一度金で裏切ったものが、そうも簡単に改心して自殺までするだろうか・・・、そこまでの覚悟があるなら、私なら逃げきってやろう…と思うかもしれない、また復活してくるイエスを恐れていたか…それなら尚のことイエスを裏切る理由が希薄になってくる。

1970年代の話だが、エジプトで発見されたパピルス文書の中に「ユダの福音書」と言う文書が発見されたが、その後この福音書は行方不明になり、再び発見された時にはボロボロになって劣化していた。
しかし修復されて公開されたこの福音書には、恐るべきことが書かれていたのである。「イエス・キリストの裏切り者ユダは実際にはイエスの指令に従っただけだ・・・」ユダの福音書にはそう書かれていたのである。

このユダの福音書、紀元150年ごろギリシャ語で書かれ、180年頃には正統派から異端の書とされ禁書となったが、300年代にはエジプトのコプト語に翻訳とともに写本され、その後367年にアレクサンドリアの司祭アタナシウスが、現在の4つの福音書を含む27の文書を新約聖書の正典としたことから、今日まで細々と受け継がれてはきていた。

だが現在の新約聖書の正典はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4人の福音書と、使徒の書簡、ヨハネの黙示録などで構成されていて、その中の記述では冒頭でもあったように、ユダは銀貨30枚でイエスを売り渡したことになっているが、「ユダの福音書」では「お前は真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを越える存在となるだろう」と記されている。
つまりユダは真のキリストが出現するために、イエスの殺害に手を貸すが、それによって12使徒の中で、イエスの第1の弟子となると記されているのである。

ユダの裏切りはイエスの望みだったのであり、イエスは殺されることによって衆生の罪を背負い、神に許しを乞うた・・・、そして肉体を脱却し、救世主(メシア)として真のキリストとなるという予言を成就させたのであり、それを成就させる手伝いをしたのがユダだったとされているのだ。

ユダの福音書が現在の新約聖書に復活することは有り得ないだろうが、この福音書はある程度の創造的整合性があるように思える・・・、ユダがなぜもっともイエスから信頼されながら裏切ったのか、また直後に自殺するなどを考えると、ユダもまたキリストと同じように自らの肉体を犠牲にしてその役割を果たし、その上後世に残るまでの汚名を着たのではないか、もしそうだとしたら、ユダは神から選ばれたイエスに次ぐ聖者と言えるのではないか…と言うことである。

およそ善に対する悪は、結果的に善を主とするなら、あたかもその善を善たらしめるための使命を負っているようなところがあり、こうした場合その悪が、悪を行う者に取ってどこまで主体的なものかが非常に微妙なところがある。
すなわちそこに神があって、全知全能ならすべてが予め定められたものとなり、悪を犯す者もまた神によって定められたものとはならないだろうか・・・、この場合神によって定められた悪は、その報いを懲罰として受けるなら余りにも無慈悲な話である。

またこうした悪や善を予め知らないとすれば、神もまた人間の持つ「不確定性原理」の中にあることになるが、その場合は偶然であれば神は否定される・・・、必然であれば悪もまた善の内にあることになる。
唯一つの方法として、偶然と必然が一致している場合があるが、この場合神は地上はおろか、全宇宙を支配しながら全く手出しができないことになりはしないだろうか。

皮肉なことだが、ユダが本当に自分の私利私欲で裏切ったなら、これは偶然と言うことになるが、では神はそのことを知っていてユダを利用したのか・・・、それとも偶然と必然の一致だったのであれば、そもそも神はコントロールができないのではないか、そしてユダの裏切りが神の手の内にあるのなら、「悪」とはなんだろうか・・・。

「死後の格差」

地獄の沙汰も金次第・・・いや、まさかそんなことはあるまい、せちがらい世の中とは言え、せめて死んでから後ぐらいは公平であろう・・・と思いたいが、やはりそうはいかないものらしい。
2009年6月28日、富山市で生活保護を受けていた56歳の男性の遺体が、生前本人の同意がなかったにもかかわらず、富山市によって学生の解剖実習用に、日本歯科大新潟生命歯学部(新潟県)へ引き渡されていたことが、地元新聞などによって報道された。

それによると男性は2009年4月22日、市内のアパート自室で死亡しているのが発見されたが、富山県警は事件性がないと判断、警察署に一時安置したものの、富山市の依頼を受けた日本歯科大学が、4月24日に引き取った・・・と言うものだが、この男性は富山県出身で日雇い労働者として働いていたが、その際勤務中に骨折し、路上生活者となってしまい、2008年末から生活保護を受けていたが、孤独死のうえ、連絡したが遺族からは遺体の引き取りを拒否された・・・、それで富山市は日本歯科大学への引渡しを了承したと言うことだ。

富山市福祉課は「受け入れ先が見つかった以上、市の仕事は効率的、経済的にすべきだと判断した」と語っているが、確かに火葬して無縁墓地に埋葬するから見れば、大学が引き取ってくれれば金もかからず効率的だ・・・、が、この男性は生前に献体の同意をしていなかった。

法的には「死体解剖法」で、こうした引き取り手のない遺体の場合は、本人の同意がなくても研究機関での解剖が認められてはいる。
亡くなった人が生前「献体」の登録をしている場合も同じだ・・・、しかしこの登録がなくて引き取り先がない遺体は行政が生活保護法、墓地埋葬法などに鑑み、都道府県が費用を負担して埋葬する方法が1つ、そしてもう1つ、献体用に大学などの研究機関に引き渡される方法の2つがある、どちらも合法だが、これでは遺体によって死後の扱いに随分と大きな差が発生しかねない。

またこれは北陸の他の県での話しだが、こちらも50歳代の男性が生活保護を申請中に、料金未払いで水道や電気を止められ、市営住宅で餓死したことがあり、これなどは積極的殺人と言えないまでも、消極的な放置による殺人とも言えるのでは・・・と革新系市議が市長を追及したが、行政には一切責任がないとこれを否定した上で、議会終了後、この革新系市議に対して市長は「そんなことを議会で言ったら観光に影響が出る、風評被害だ・・・」と言ったとする話もある。

何とも乱暴な話だが、万事が金次第の今の日本らしい話である。
数年前、大学の研究機関では解剖用の遺体が不足していた時期があった・・・、それで行政は表には出していなかったが、大学の要請に応じて右から左で大学に遺体を引き渡していたが、景気の悪化に伴いこうした引き取り手のない遺体が増えてきたのではないだろうか、最近では火葬して埋葬する方式と2つに分かれて「処理」されていた・・・と見るべきかも知れない。

だが片方は火葬して、取り合えず埋葬してもらえ、片方は大学で解剖実習用に使われる・・・、どちらも生前、特に献体の希望を示していた訳でもないのに、この在りようにはどうしても落差を感じてしまう。
基本的人権は死後のことまでは規定しているとは言えないが、死後もし自身の意思が無くなってから、こうした格差があるとすれば、これはこれで生きている内にその死生観に影響を及ぼす問題ではなかろうか・・・。

ちなみにこの地元新聞は生活保護者の場合、死亡してから埋葬に関わる経費を、行政が援助する制度があることを、この男性の遺族には伝えていなかったとしている。
もし資金的に苦しくて遺族が遺体の引き取りを断ったとしたら、市の担当者の責任は軽くはないだろう。
そしてこうした問題はおそらく表に出なくても、全国で発生していることだとも思うし、何となくカチンと引っかかる話である。

それにしても、どうだろうか片方で法に触れない、経済的だ・・・と言う言葉があり、自分が死んだときには盛大な葬式で皆から涙を貰って送られる・・・、それを神仏は「良くやった」と言うだろうか・・・。

「何かがやってくる」

中国科学院、地球物理学会理事長の「顧攻叙」(こ・こうじょ)はまず自身の補佐役に「査志元」(さ・しげん)を選んだが、その査志元とその関係研究者、それから自分の後輩などを選任して、どうにか国家地震局の形は整えたが、具体的なプランはまだ全く見えていなかった。
「顧、同志、私は人民に必ず地震が起こる前にそれを予測する、これは中華人民共和国の威信にかけて約束する・・・と言った。どうかよろしく頼みますよ・・・」いつものようににこやかに、そして穏やかに話す毛沢東(もう・たくとう)国家主席の声が顧理事長の頭の中でぐるぐる回っていた。

全くの貧乏くじだが、これでうまく行かなければ、自分がこれまで築き上げてきたものも全て失うだろう・・・、それにしても本当にあの指導部の連中は、地震など予測できると思っているのだろうか・・・。
顧理事長は来る日も来る日も、何か良い方法がないかと考えていたが、これと言った方策は何も思いつかないままだった。

話は前年の1966年に戻るが、河北省で大地震が発生、甚大な被害を出した・・・、そのとき毛沢東は周恩来(しゅうおんらい)首相を地震被災地へ見舞いとして送り、国家目標として、将来必ず地震予測ができるようにする・・・と発表したのである。
中国共産党は自分達より上のものは例え神であろうとも認めない・・・と言う姿勢、これによって神を超える中国共産党のイメージを作り出したかったのかも知れない。

もともと中国には地震学の非常に長い歴史があり、統計、民間予測方法や記録が残っていたのだが、長い間の封建制度と半植民地的な近代情勢の中で、地震研究は顧みられることが無くなり、1945年当事、地震研究者はたったの4人、観測所は2箇所しかなかったが、この状況は1960年代でもそう大幅に改善されてはおらず、これを「完全なものにしろ」と言われた顧理事長は苦難の日々を送っていた・・・、しかも今度は国家主席が人民に約束したのだ、外せばどうなるかは目に見えたことだった。

そんなある日、査志元が、遼寧省から面白い男を連れてきたのだった。
「私は遼寧省の海域地震であれば、金さえ出してくれれば10日と違えず地震を予測してみせる」そのよれよれの人民服の男は、そう言うと、自分を国家地震局で働かせてくれと顧理事長に言うのである。
今や金も権力も地震予測の為ならどうにでもなる立場である顧理事長は、どうしたものかな・・・と思ったが、この時この男を強く押すのが同じ遼寧省出身の「朱鳳鳴」(しゅ・ほうめい)であり、朱はこの男は地震予知では有名な男だと、顧理事長に伝えた。

これをを聞いていた査志元は、顧理事長を別室に促した。
「もともと、中国全土の地震を予測するのは困難なことです・・・、これは理事長もご存知のはず・・・、だから当たりやすいところを選んで当てる・・・、これだと外れは少なくなるから主席も約束を守ったことになるのではないでしょうか」
「それは・・・外れないところだけを予測すると言うことかね・・・」顧理事長は少し厳しい顔で査志元を見返す。
「そうです、幸いなことに遼寧省の海域地震については周期予測が立てやすく、しかも1960年ごろから活動が活発になっています。その上にあの男の予測方法を使えば、何とか1度は地震を予測できるかも知れません」
「だが、それだと唯1回だけになるかも知れないが、その後はどうする」
それはその時にならねば分かりませんが、今は1度でも地震を当てないと、私も理事長も炭鉱送りは間違いないでしょう・・・」

顧理事長はこの遼寧省の男を国家地震局の職員に加え、朱鳳鳴を正式に遼寧省地震局研究員に任命し、毛主席から要請があった国家地震局を発足させた。
このやり方はどちらかと言えば汚いやり方ではあるが、日本でも比較的データが揃っていて、傾向がわかっている東海地震域に殆ど全ての高額機材を投入し、これを当てて地震予測ができた・・・と言う実績にしようとしているのに似ているが、こうしたことは外れない地域での予測で、本当は地震予測とは程遠いものであり、顧理事長はこのことで躊躇していた・・・しかし他に方法はなかった。

そしてこの遼寧省出身の男だが、名前が公開されていない、またその素性も明らかではないのだが、昔から中国では民間で動物の変化や気象での変わったこと、井戸水の水位の変化や植物異常で地震を予測する方法があり、彼はこうしたことをもとに地震を予測することができたのではないか・・・と思うが、それが証拠にこれ以後国家地震局は国を挙げての宣伝を行っていく。
大量の人員を動員して、映画、展覧会、宣伝カー、パンフレット、ラジオなどで地震の知識の普及を行っていく傍ら、一般人民に情報の提供を呼びかけるのだが、その情報とは犬が騒ぐ、月の色がおかしいなどの日常生活上の変化の情報だった。

国家地震局がやっていたのは、遼寧省でのこうした異常現象の分布による解析と、高額な観測機器の併用による地震予測だった。
つまり遼寧省の海域震源域近くで全ての機材を投入して科学的観測を強化し、これと同時に民間の異常現象を集めて、それで地震発生の日時まで予測しようと言うものだった。
1回でいい、地震を当てれば国家主席の顔は立つ・・・と言う形式のものだ。

1970年、国家地震局は遼寧省を地震発生重要監視区域に定め、そして1974年ついにそのときはやってきた。
遼寧省海域付近の沿岸で地電流の変化が始まり、ネズミの大量移動が始まったり、冬眠中のヘビが出てきて雪の上で死んだり、井戸水が濁ったり、水位が上昇してきたりの異常が始まってきたのである。
1974年12月20日、国家地震局は近いうちに海域の北側でM4~5の地震が発生すると発表し、12月22日M4・7の地震が発生した。

しかしこの地震のあとも民間の異常現象の報告はますます増加し、動物たちの異常行動は更に激しくなっていく・・・、また細かな微動が続き、土地傾斜計は正常起動を外れて加速度的な屈折を示してきた。
1975年2月4日、午前0時30分、国家地震局は中国共産党指導部に緊急の通報を行い、2月4日か5日の間に地震が発生する・・・と伝えた。
そして2月4日午前8時、ついに住民に対して「避難命令」が出され、人民解放軍が病院や大きな工場などから人々を避難させ始め、午後3時50分、地電流や土地傾斜の急変が始まり、ここに至って国家地震局は3時間以内に大地震が起こることを予測した。

午後6時、緊急避難命令が発令され、最後に残った住民も全て自宅の火の後始末をして避難は完了・・・、そして午後7時36分に海域近くでM7・3の大地震が発生したのである。
背景はどうあれ中国が世界で初めて地震の予測に成功した瞬間だった。

中国政府はこの実績を大々的に海外メディアに発信し、各国で要請があれば国家地震局の職員を派遣してその業績を宣伝した。
しかし、査志元や顧理事長が恐れていた通り、その次に別の場所で大きな地震が発生したときは、これを予測できなかった。
1度は地震を当てているから何とか言い逃れはできたものの、また後が無くなった顧理事長等は頭を抱えていたが、1976年1月、周恩来首相が死去、また同じ年の9月には毛沢東国家主席も死去し、中国は「華国鋒」(かこくほう)の元での体制変革が始まり、地震予測プロジェクトなどは無駄だ・・・と言うことになってしまった。
結局、顧理事長や査志元たちの炭鉱送りは無くなったものの、国家地震局は解散、その後地震予測などは「非科学的だ・・・」と言うことになっていったのである。

不完全で見せかけだけ・・・と言えばそうだが、それでも国家地震局の活動がもし今日まで続いていたら、あるいは先の四川省大地震は予測されて、一人の死者も出さずに済んだかもしれない。

最後に、国に動乱や混乱があるとき、天変地異もまたそうした時にやってくる・・・世界中のあらゆる地域でささやかれる民間伝承である。

「自分が歩いてくる」

1967年6月、ニューメキシコの砂漠地帯を走る道路・・・、長い運転に疲れた夫に代わって、今しがた車の運転を始めたクリスティーナは照りつける太陽の下、快適なドライブを楽しんでいた。
ラジオからはポップな音楽が流れ、このまま次のガソリンスタンドまでは70km・・・、しかしガソリンはさっきのスタンドで満タンにしたばっかりだったし、ふと隣を見れば夫はもう軽い寝息を立てていた。

まっすぐな道路で、走っている車は自分が運転している車しかいないし、たまにすれ違う車があってもそれは大したことはなかった・・・、ただ気を付けなければいけないのは眠気との闘いだが、それもさっきまで休んでいたし、特に眠気も感じてはいなかった。
だがふと道路の遠くに目をやったクリスティーナは「あらっ」と目を凝らした・・・、こんな砂漠の道路を誰かが歩いている、しかもそれはショートパンツのシルエットから「女」であることは間違いなかったが、ちょっと瞬きしたとたん、その姿はかき消されたようになってしまった。

「いやだわ、疲れているのかしら・・・」クリスティーナは幻を見たのだと思い、そのままアクセルを踏んだ・・・、とその時だった、さっきの「女」が車の目の前をこちらに向かって歩いていて、ブレーキを踏んだがもう間に合う距離ではなかった・・・、そしてその顔は誰だったと思うだろうか、なんとにこやかに笑って車に向かってくるその「女」は、クリスティーナ自身だったのだ。
「きゃー」と言う絶叫とともに車は急停止した・・・が、間違いなく人を撥ねてしまったはずなのに、何の衝撃もなく、恐る恐る目を開けたクリスティーナを、びっくりしたような顔をした夫が覗き込んだ。
「どうしたの・・・」夫の不思議そうな顔にクリスティーナは「自分を撥ねてしまった・・・自分を撥ねてしまった」と震えるばかりだった。

さっそく車を降りて、誰か撥ねたのか確かめようと2人は付近を捜したが、死体はおろか付近に人影など全くない・・・、また車もぶつかった形跡も何もなかった。

またこれはあるセールスマンの話だが、同じ道路を会社の会議で遅くなったので、かなりのスピードで走っていたところ、月夜であたりはほのかに明るく、行き交う車も殆どなかったが、疲れていたのか一瞬眠ってしまい、目を醒ました瞬間だった。
目の前に大きな事務所の建物がそびえたっていて、道路を遮るようになっていた・・・・、しかも窓やキラキラするガラスに映る金文字さえ見えたのである。
「ダメだ・・・、これは間に合わない・・・」セールスマンはとっさにハンドルを切ってブレーキをかけたが、いつまでたってもぶつかった衝撃がなかった。

良かった・・・間に合ったか・・・、セールスマンはホッと一息ついて顔を上げた・・・、が、あれっ・・・そこには何もない、そびえたつ事務所はおろか、薄明るい月夜の道が続いているだけだった。

他にもある。
これはある牧畜業者の体験だが、夜道を飛ばしていたこの牧畜業の男性が、やはりこの道路にさしかかったところで、突然道路を塞ぐように巨大なスタジアムが出現したのだった。
良い天気で、風にはためく沢山の旗が見え、観客のどよめきまで聞こえてくる、そしてなぜかそこだけ昼間なのである。
この男性も突然目の前に現れたこのスタジアムを避けることは不可能な距離だった、「もうダメだ・・・」と思ってブレーキを踏んでいるが、やはり顔を上げてみると、そこには暗闇が続いていて、コオロギの声が聞こえるだけだったのである。

更にやはりクリスティーナのように、自分が目の前を歩いてくるのを撥ねた・・・と思った新聞記者の男性の体験は、なんと衝突する瞬間、煙のようにそのもう1人の自分が消えてしまうと言うものだった。

この道路は年間1000件以上の怪しげな事件が起こり、数百人の命が失われ、アメリカのドライバーからは「魔の道路」と恐れられているが、こうした現象に心理学者の1人は、直線で単調な道路では眠くなることが多く、心に思ったことが幻のように目の前に現れるのではないか・・・と言っているが、普通もう1人自分がいる・・・などとそんなに頻繁に考えるだろうか・・・。

「仏教の成立」後編

およそ1つの宗教はそれのみが突然に発生してきたものでは有り得ない。
仏教を見てもその前にバラモン教があり、キリスト教、ユダヤ教に至ってもそれ以前にバビロン、メソポタミアの宗教観の中から一つはそれを取り入れ、一つはそれに反発する形で自身の宗教を創造して行ったに過ぎない。

だから宗教と言うものの本質はその流れにあり、いつの時代も普遍な価値観を与えるものではなく、時代によってそれは変化し、また個々の人間においてもその概念は決して安定してはいない。
すなわち自身の概念としてある「無常観」と他が概念として持つ無常観は同じように見えて違う・・・、そしてその違いを人間は決して確かめることができない。

ガウタマ・シッダールダが興した仏教、しかしインドは決して安定した勢力が統一を果たすと言うことがなく、仏陀の死後マガダ国が仏教とジャイナ教を保護したこともあって、仏教はこのマガダ国を中心にして幾つかの教団に分かれて活動したが、紀元前3世紀、マウルヤ朝のアショカ王が仏教を強力に保護し始めると、飛躍的に発展していったが、このアショカ王が仏教を保護し始めたのは理由があった。
インド東海岸地方にあるカリンガ王国を滅ぼした際、その戦い方は残酷を極めた・・・、アショカ王はこの戦いをひどく後悔し、そのために自身が仏教を信仰するに至ったと言われている。

そしてこのチャンドラグプタが起こしたマウルヤ朝が勢力を弱めると、今度は南インドにアーンドラ朝が興り、その自由な空気の中でナーガールジュナたちの「大乗仏教運動」がおこったが、大乗の思想自体は紀元前からあったもので、新仏教と呼ばれる性質のものだが、利他主義の立場から人間一切の成仏を説き、戒律にとらわれず菩薩信仰を中心に、広く衆生の救済をはかろう・・・と言うものだった。

仏教教団は、シャカの死後多数の学派に分かれて論争をしていたが、この大乗の精神はそうした中から改革運動で起ってきたものであり、それまで仏教としての個人は厳しい戒律を守り、苦行してその悟りを開こうとするものだったが、こうした古典形式の仏教を、大乗仏教側は小乗仏教と呼び、区別した。
したがって、小乗仏教という呼び方は大乗仏教側の呼び方であって、古典仏教が小乗仏教と呼ばれる根拠は明確ではない。

紀元前6世紀から紀元後3世紀ほどまでのインドは正確には小国の乱立状態で、その中の勢力の強いものがインドの大部分を征した形で、その入れ替わりは激しく、それぞれの為政者が仏教を保護した為、仏教は栄えたが、こうした為政者がイスラム勢力の干渉を受けるに従って仏教の衰退が始まった、この背景には宗教的復興精神が新興宗教の仏教では無く、古典宗教であるバラモン教に及んだ点にある。

だがこうした傾向は現在も同じで、およそ人間とはこうした思考形態の動物である・・・と考えたほうがいいだろう。
すなわち、同じものなら古いほうに価値を見出し易いからであり、これはどう言うことかと言うと、例えば皿にしようか、土の中から明治時代の皿と飛鳥時代の皿が見つかったとすると、人間は明治時代の皿がいかに優れていても、飛鳥時代の皿により大きな価値を見てしまう点にある。

一つ前の時代に流行っていた仏教よりは、その前のバラモン教により大きな価値を見出す動機はここにあるように思えるが、インドの地理上の位置からしても、異文化の侵食を受け易い土地柄から、その地域の独自性と言う観点でも、より古典的な思想が尊重され易い下地を持っていたと見るべきだろう。

仏教は紀元後3世紀にはバラモン教の復刻版とも言える、ヒンドゥー教に押され少しずつ衰退していったが、チャンドラグプタ2世のグプタ朝、その後紀元6世紀の北インドで興ったヴァルダナ朝まではインドでその信者の活動を見ることができるが、その後7世紀には諸国王が乱立して争い、数世紀にわたる暗黒時代を迎えることになり、やがてイスラム勢力の支配を受けるに至って、インドでの仏教は消滅した。

しかしアショカ王の時代、王は仏教を統治の根本精神と定め、広く布教に努め、仏教は非常に発達した、また王は諸外国にも仏教の布教に努めたが、ことにセイロン島の布教が大成功を収め、このルートから東南アジアへの仏教伝来が始まった。
そしてこのアショカ王が信仰していたのが小乗仏教だった経緯から、東南アジアでは同じ仏教でも小乗仏教が伝播し、この後紀元2世紀、マウルヤ朝が衰退してクシャーナ朝が起ったときには、カニシカ王が大乗仏教を信仰していた為、今度は大乗仏教がクシャーナ朝の出身地だった中央アジアへ伝わり、中央アジアの道路網(シルクロード)を通して中国、朝鮮、日本へと伝わるのである。

大乗仏教の経典の多くはこのカニシカ王の時代に編纂されたものであり、こうした伝播ルートから大乗仏教を北伝仏教、一方東南アジアルートは南伝仏教とも呼ばれ、大乗仏教の原典はサンスクリット語で書かれ、チベット訳、漢訳の大蔵経があり、小乗仏教の原典はパーリ語で、南伝大蔵(邦訳)などがある。
またこうした仏教の教義が分裂化、細分化して混乱する為、時の為政者は「仏教結集」と言う教義の統一的見解をまとめる為の宗教会議を開いているのもまた面白い。
こうした宗教会議はキリスト教にも見られるからである。

仏教結集とはシャカの没後、仏教経典の整理統一を行ったもので、彼が生前語った法話が失われるのを防ぎ、また異説が生じないように弟子たちが集まり、各自の記憶するところを述べて、同異を正し修正したのが始まりで、4回の結集があり、第1回はシャカ入滅直後、紀元前5世紀半ば頃、マガダ国の首都ラージャグリハ付近の洞窟に、約500人の弟子たちが集まって開かれた。
第2回はその100年後の紀元前4世紀、マガダ国のヴァイシャリーで、700人の比丘が集まり戒律の問題で討議した。
そして第3回の結集は紀元前3世紀、アショカ王が開いたもので、この時はサンスクリット語で総合的な結集となった。

またクシャーナ朝の首都プルシャプラを中心とするガンダーラ地方にはヘレニズム文化の影響を受けた仏像彫刻がおこり、ギリシャ式仏教美術が栄え、その栄えた地域にちなんで、これをガンダーラ美術と言うが、インドでは始め信仰の対象を人間の像で表すのは恐れ多いと考えて、仏像は作られていなかった。
しかしバクトリアのギリシャ人がガウタマ・シッダールタを人間的に彫刻したのがその始めで、そのためこの仏像はギリシャ神像に似ていることになったが、ガンダーラ美術は大乗仏教とともにシルクロードを通って中国に伝わり、更に朝鮮半島から日本にまで影響を及ぼしたのである。

宗教は唯見ていると皆がそれぞれに違っているように見えるが、実はその根底を流れるものはそう相反したものではなく、むしろ同じような側面を持っている。
つまり1つの考えがあって、これに賛同する者も反対する者も、結局原型となるものがあっての話で、こうした意味ではその時反対側にいた者が、将来の改革や復興でまたまた反対の反対になる可能性も秘めている、しかもそのことは年々歳々移り変わっている。
宗教は決して止まった状態のものではないのである。

ネアンデルタール人たちはその生活の中で「死生観」を持っていた・・・、その後クロマニョン人は音楽を楽しんでいたようだ・・・、現在互いに争い、憎しみ合っている宗教は元々兄弟の関係にあるものだ、もしかしたらすべての宗教を辿っていくと、本当は1つの観念から始まっているかも知れない・・・・。

シャカは晩年老いたわが身を引きずり、故郷の丘に立った・・・、しかしそこは戦争と混乱で幾多の亡者が積み重なり、男も女も乞食のように身をやつし、生き地獄の有様だった。
シャカはこの有様を見てこう言う・・・、「ああ・・・生きていると言うことは何と素晴らしいことだ、この世は何と甘美なものなのだろう・・・」