「駅の伝言板」

昭和と言う時代は何かしらとても雑な感じがするが、その中に強さがあった。
駅などもそうだが、ボサっと歩いていると、「こら、バカ野郎、どけー!」と後ろからどやされ、まだ少年と言うにも幼い私などはこれで傷つくかと思いきや、全く気にもならなかった・・・、このくらいのことは日常茶飯事に大人から言われていたし、警官なども、学校へ防犯活動に来ると、「悪いことをしたら牢屋行きだぞ」ぐらいのことは平気で言って、子供を脅していたものだった。

冬は近くの・・・と言っても2キロは離れていたが、学校へ歩いて通っていて、途中でなだれが起こる場所があって、そこを通るときは声を上げないように集団で通るのだが、土建会社の人などが除雪車で後ろから来ると、大きなショベルに子供たちみんなを乗せて、家の近くまで送ってくれたものだった。
今の親ならこうした光景でも見ようものなら、「もし落ちたら、責任取れ・・・」となるのだろうが、この時代はそうしたことを言う親は誰もいない、落ちたらそれは自分が悪い・・・ことは言わずと知れたことだったのである。

昭和40年代だとは思うが、私の町にはまだ蒸気機関車が走っていた。
確かC61かC62・・・そう言う番号だったように思うが、大きな黒い機関車が汽笛を鳴らし、蒸気を吐き出す音はかなり離れていてもビクっとするほど大きな音で、幼い私はそのたびに立ち止まり、家の影から激しく噴出している蒸気を眺めていたものだった。
そして駅にはライトグリーンのペンキが剥げた改札が横に3列あり、その手前には木製のベンチが背中合わせに4列、壁に沿ってやはり4列づつ並んでいて、そこから少し離れたところには、新聞やガム、コーヒー牛乳、パン、蒸し饅頭などを売るかなり大きな売店があり、夏にはアイスクリームの冷蔵庫が3列も並んでいた。

この当時の機関車は30分に1本、それも4両編成だったが、それでも夏の観光シーズンには満員で、多くの人でごった返していたが、その駅のペンキが剥げた木の板壁には、ちょうど1メートルほどの黒板が掛かっていて、チョークが置かれていたが、これを「伝言板」と言って、今のように携帯電話などない時代、非常に重宝したものだった。
友人より先に汽車に乗って、それを友人に伝えるには、「○○分の汽車に乗った・・・」と書いて、自分のあだ名を書いておけば、後から来た友人がそれを見て、先に帰った私を更に待つことは無くなるし、恋人たちの告白、集会の案内、そして時にはどう言う意味か子供には分からなかったが、「さよなら」とか書いてあったこともあった。

みんな駅へ入ると必ずこの「伝言板」を見ていたものだったが、多分私が高校生の頃までは、こうしたものが各駅に備え付けられていたように思う。
勿論この頃になると既に蒸気機関車はなくなり、ディーゼル機関車になっていたが、古くて相変わらず雑然としていて、それでいて少し汚いのだが、掃除はされている、そしてたくさんの人が行き交う駅の「伝言板」には多くの人が何かを書き込んでいて、それらは分かる人には分かるのだが、他人には預かり知らぬ内容で、夏の日、機関車が発車して暫く経ち、駅に人通りが少なくなり、そこに西日が当たると微妙に切ない感じがしたものだった。

高校2年生くらいだろうか・・・夏の日、私は同級生3人と家へ帰るため電車に乗ろうと、自分の住んでいる町から2つ離れた駅・・・いつも通っていた駅なのだが、そこで次の機関車を待っていたが、白いカッターシャツのボタンを3つも外し、だらしなく木製ベンチに座る私たち不良3人組は、とても不思議な光景を目にすることになった。

柄物のシャツから出ている腕は逞しく、私の腕の4倍の太さはあろうか・・・、黒く筋肉で鋼鉄のように強靭に見え、身長は私より低かったが、体重は私の倍、しかも頭は丸刈りで、目つきの悪い男が伝言板の前に立っていて、その男、何を見たのか突然両側に下げていた手を握り締め、それがかなり離れたところから見ていても、少し力を入れすぎて震えているのが分かるほど、ブルブル震えたかと思うと、下を向き、何と泣いていたのだった。

既に次の機関車に乗ろうとする乗客が少しずつ増えてきていたが、そんな全ての人が何らかの動きをしている中で、その男だけは立ち止まり、そして下を向いて泣いていた・・・自分を振り絞るように泣く男、おおよそ涙など似合わない風体に、その姿とのギャップはなぜかとても胸が詰まるような思いがあり、私たちは男に気づかれないようにずっと見ていた・・・。
やがて次の機関車が到着し、私たちはそれに乗り込んだが、窓から眺めるとまだその男は伝言板の前に立っていた。

機関車はやがて電車になった・・・。
駅も綺麗に新築され、この時伝言板もなくなった・・・が、その後4両編成だった電車は乗客の減少にともない、3両、2両と減らされ、1両でも乗客は数名になった・・・、そして私の町の電車は廃線になり、駅も閉鎖された。

あの夏の日、男は何を見ていたのだろうか、何をして彼を泣かせることになったのだろうか・・・。
それは分からない・・・、だがたまに荒れ果てた駅を車の窓から横目で眺めるにつけ、妙に気になる・・・。

「何故ここに・・・」

1953年、一人のエクアドル人がアメリカのスミソニアン博物館を訪れ、クリフォード・エバンズ教授がこれに応対したが、このエクアドル人は「趣味で古い遺跡を調べているのだが、少しばかり教えて頂きたい」と言う・・・。
彼の名前はエミリオ・エストラーダと言ったが、エクアドルでは自動車販売にアメリカ式の合理的な方法を取り入れ、やり手の実業家として有名な人物だったが、「私の尊敬する人はドイツの有名な考古学者、ハインリッヒ・シュリーマンだ」と公言するほどの考古学マニア、仕事の合間にこつこつ考古学を勉強し、そして商用に出かけるたびに、その地方の遺跡を丹念に見てまわっていた。

エクアドルの人里離れた淋しい海岸にやってきたのも、そう言う機会を使ってのことだったが、「この辺に古い遺跡が出るところはないかね・・・」と土地の者に訪ねるも、皆顔を横にふるだけだったが、そうだこうした場合は・・・すかさず金を握らせたエストラーダ、すると「そう大した物は出ないよ、だけどこんな土器のかけらなら、たくさんある」と言ってその土器の出る場所へ案内された。

そこは荒れた畑の端だったが、ちょっと見ただけでもたくさんの土器のかけらが散らばっていて、古代の遺跡らしかった・・・、エストラーダは足元の土器のかけらを拾い上げ、そしてクビをひねった・・・。
「はて、見たこともない模様の土器だ、ひょっとしたらこの遺跡はまだ学会には知られていないのかも知れない、これは大変な物を発見したかも・・・」と思い、帰って考古学の図鑑や論文を読みあさったが、それらしいものはどこにも掲載されておらず、似たものすら見つからなかった。

こうしてエストラーダはエバンズ教授に面会を求めたのだったが、持参した土器のかけらを見たとたん、エバンズ教授の目は輝いた・・・、「これは珍しい土器だ、つい最近他でも発見され、マヤやインカの古代文明を探る重要な手がかりになるかも知れないといわれている、どこで見つけたのですか」・・・と言うことになり、その場でエバンズ教授との共同研究機関設立の約束ができた。

翌年1954年、エクアドルにやってきたエバンズ教授の指導のもと、海岸の遺跡発掘が始まったが、余り大した成果は上がらず、教授は滞在許可が切れてきれてしまい、帰国してしまった・・・、エストラーダは一人で発掘を進めなければならなくなったが、1956年の夏、海岸沿いのパルディビアの村の近く、エストラーダはかなり大きな遺跡を発見した。

こんもりした丘の上、土器のかけらがたくさん散らばっていた、「おお・・・この土器のかけらは・・・前に発見したものと良く似ているぞ」エストラーダは我を忘れてその発掘に精を出した。
成果はすぐに上がった・・・僅か数十センチ表土をどけると、またも見慣れない土器のかけらが現れ、かけらの面に斜め平行な線が刻まれ、互い違いに重なった模様を成している・・・、そのかけらを拾い集め繋ぎ合わせてみると、縁が波状になっている奇妙な土器になった。
「こんな形の縁を持つ土器はまだ発見されたことがない、今度こそ大発見だ」エストラーダはダンスを踊り、エバンズ教授に電報を打った・・・、ふたたびエクアドルにやってきたエバンズ教授は相当喜んでくれるはずだったが、その顔はなぜか厳しい表情で「あなたは、もしかしたら私をバカにしているのかね」・・・とエストラーダに不快感もあらわに問いかけた。

「これは、古代日本に特有の縄文式土器にそっくりだ、斜めの線模様、波状縁、底すぼまりの形、全て縄文式土器の特徴と一致している、一体どこから発掘したのですか」
エバンズ教授は実際自分の手で発掘してみるまで、とても信じられない気持ちだった・・・が、しかし発掘の結果は更に訳の分からないものとなった。
アジア型住居の埴輪、インドで発見されるような土製のおもり、ビルマで出土する左右対称形の笛、台湾などに見られるイカダ、日本の縄文時代に見られる耳栓などが、ぞくぞく発見され、そのどれもが南方海岸から運ばれたものらしかった。

「これは・・・一体この遺跡はいつごろのものなのだろう」・・・と言うことになり、この土器と一緒に発見された貝殻で、炭素14を使った年代測定が行われた・・・、放射性炭素14は他の炭素成分と一定の割合で混じり、そして一定の割合で減っていくことから、貝殻に含まれる放射性炭素14の残量を測定することで、おおよそのものが何年経過したかが分かるのだが、結果は・・・信じられないものだった。

何と約4500年前のものと測定されたのである。
以後エストラーダは発掘に夢中になり、論文をまとめ考古学専門誌に次々と成果を発表したが、そうした発掘と仕事の両立の中で無理がたたり、1961年、45歳の若さで死んでしまった。
こうしたエストラーダをおもんばかってか、エバンズ教授は、エストラーダの論文をアメリカの科学専門誌「サイエンス」に投稿、これが発表されると、ニューズ・ウィークやワシントンポストといった、大御所新聞社までが取り上げ、世界的な特ダネとなったが、当時日本の東京大学文化人類学教室では、この発見を認めなかった。

それにしても、4500年前に日本やアジアのこうした土器が何故エクアドルへ運ばれたのか、さっぱり見当がつかない。
もしかしたら現代より4500年前のほうが海上交通が発達し、頻繁に貿易などが行われていたと言うことか・・・。

「不老不死」

ある個体生命が生まれてから死ぬまでの期間、個々の寿命をある集団について平均化したものを「平均寿命」その集団の中で最も長生きした者の寿命を「最大寿命」と言うが、この内平均寿命については、生物学的な意味からすると、少し異なった方式を指している。
生まれてからの各年齢(小動物だと月齢)における生存率を求め、生存率が50%になったとき時の年齢を、平均寿命と言うのが正確な方式だ。

平均寿命は人の場合、医療の発達によって時代とともに大きく変化してきたが、日本人だと1891~1898年(明治24年~31年)に男性42・8歳、女性では44・3歳だったが、1950年~52年(昭和25年~27年)になると男性59・57歳、女性62・97歳になり、現在では特に女性では80歳を大きく超えている。
動物でも平均寿命は環境の影響を受け易く、マウスでは食料を食べ放題にしたとき約21月齢、最初制限食を与えたものは約29月齢生きる。

最大寿命の方は「種」によって遺伝的に決定しているので時代による変化は少ないと見られているが、種による寿命の違いは普通各生命体の最大寿命の比較になり、例えば、マウス3年、ウサギ13年、ライオン35年、うま62年、人間120年がほぼ最高値で、一般的には体が大きい生物ほど最大寿命が長くなるが、人間は例外的に長生きな生物になっている。

またツパイ、赤毛サル、手長サル、ヒヒ、ゴリラ、チンパンジーなどの霊長類について言えば、最大寿命と性成熟年齢の間には見事な比例関係が成立しているが、こちらでも人間は例外的なことになっていて、性成熟年齢と比べると最大寿命の数値が圧倒的に大きい。

生物の老化は一般に子孫をつくり、育てる生殖期を過ぎる頃から始まり、従って性成熟までの時間が短い・・・つまり最大寿命が短い「種」ほど早く老化が始まるが、同じ種によっても個体差があり、特に人間の場合にはその違いが著しく、また何をして老化と呼べるか、と言う概念が統一されていない。
植物の場合は1年生、2年生、多年生によって老化の仕方が異なり、多年生植物では器官による違いがあるが、葉などの緑色の器官では老化にともなって緑色素であるクロロフィルが分解する・・・また根や茎の細胞では細胞壁にいろんな物質が沈着し、細胞質が減少することをして、老化と言うことができる。

ただこうした細胞レベルのことを言えば、人間も色素沈着、小脂肪球の蓄積、細胞質の減少、核の萎縮などが見られることになるが、分子レベルではDNAの切断の増加、DNAの複製の誤りの増加、修復機能の低下、DNA端末粒(テロメア)の減少などが老化と言うことになるだろう。

さて・・・、ではこうした平均寿命や最大寿命、老化を防ぐ、もしくは回避する術はないのだろうか・・・。
言わば不老不死だが、実は面白いことがわかってきている・・・まだ実用段階は愚か一つの可能性に過ぎないが、最後にこの不老不死について少し説明しておこう・・・。

生物の細胞や個体がその生命を維持し続ける・・・生体を作っている体細胞は普通ある程度の回数の分裂を起こすと、その後は分裂しないで、やがて死んでしまう・・・が、がん細胞を含むある種の細胞は、適当な栄養を与えると、無限に細胞分裂を繰り返し、こうした細胞の系列は樹立細胞系と呼ばれている。

可死細胞と不死細胞とを細胞融合して作った雑種細胞を調べ、染色体と不死の関係を調べる研究は既に始まっているが、人間とハムスターの不死化した細胞の融合実験では、人間の第1染色体が欠ければ不死化することが分かっていて、またある種の人間のがん細胞で不死化したものでは、第4染色体が欠けていることがわかっている。
不死細胞にある種の染色体を入れれば可死化し、この原因としてDNAの末端にある「テロメア」と言う小粒の存否が、可死か不死を決めているとも言われている・・・。

テロメア・・・老化の説明でも出てきたが、DNAの端末粒・・・こんなものが、もしかしたら生死をコントロールしているかも知れないのである。
そして人は未だに何故生きているのか・・・が説明できないのである。

「自分を救えなかった預言者」

1940年11月、ちょうど世界が第2次世界大戦と言う深い暗雲に覆われていた時期だが、この年に起こったルーマニアのブカレスト大地震・・・大変な被害をもたらしたが、実はこの地震はあらかじめ予言されていた。
今夜は地震を予言し、そのために命を落とした世紀の預言者プラカータと言う青年の足跡を追ってみようか・・・。

プラカータはコンスタンタの海辺に住む占星術師だったが、彼は星の奏でる音楽を聴くことができると言われ、それを楽譜に書き留めることまでしていたとされているが、その音符は当時のどんな音楽家も理解し得ない神秘的なものだったらしい。
また彼はこうした天の音を聴く為には、絶対ピューリタンな生活を送らなければならないとして、独身を守り、いかなる女性も近づけない生活を送っていたが、それは親族にさえも変わらなかった。
そしてその信条は「自分の神は宇宙を運行する星である」として、いかなる宗教もこれを拒否、異端的な状態に固執するをはばかることもなく、こうした側面から周囲の人とコミニュケーションがとれず、相当な「変わり者」と言われていた。

この占星術師プラカータが天体から不思議な予知を受けたのは、1940年8月のことだったが、星の音符を聞き取ろうとして精神統一をはかったが、何度やっても楽譜として表現できない乱れたものになり、ディモニッシュな不快音にしかならない・・・これは何かある、それもとても大きな災いだ・・・と感じた。
そこでプラカータは「近い将来、我がルーマニアに大きな天変地異が降りかかるだろう」と予言を発したが、何せ世界大戦のさなかのことである、たちまち官憲の耳に入ることとなり、取調べを受ける・・・が特に政治的な意図がなく、どれだけ追求してもなにも出てこない、相変わらず自説を曲げないプラカータは狂人として扱われ、そのことが幸いし、この時は特にお咎めを受けることもなく終わる。

しかし大地震の起こる2週間前・・・プラカータの目には天体の星が平常とは違った妖しい色を帯びて見え、昼間の太陽は紫色に輝いて見えると言い出し、ここで始めて「近日中に大地震が起こる」と唱えるのである。
さすがに官憲も、またしても訳の分からないことを言うプラカータを捨て置くことはできず、彼を拉致、そして厳しい取調べが行われ、でたらめを流布して国家の治安を乱したとして、起訴されることになったが、この起訴する書類を作成中に予言は的中・・・首都ブカレストは未曾有の大地震に襲われたのである。

この大地震では14階の高層建築カールトンビルが大音響とともに崩壊し、ビル内の人員を押し潰し、当時の近代建築の粋を誇るカールトンビルが一挙に崩壊するくらいだから、他の建築物は推して知る結果となった。一瞬にしてブカレストは死の街と化したのである。
直ちに戒厳令が布告、一切の報道に対して管制が敷かれたが、そのため情報がない各国の報道機関は、ブカレストの大油田地帯に大爆発が起こったのでは・・・などと報道していた。

この地震では、地震が起こる1日前から、占星術師プラカータが言うように太陽が紫色に輝き、空も暗紫色となってただならぬ妖気が漂っていたとされている・・・また大地震が起こる前には空中に花火のような電光が走り、地震発生の直後にも恐ろしい発光現象が現れ、ブルガリアのルスチュクからもこの発光現象は確認されたと記録されている。

占星術師プラカータはこのとき、ブカレスト警察の留置場にいて、倒壊した建物の下敷きになって圧死した・・・何とも皮肉なことだが、彼は自分が予言した大地震であっても、自分を救うことができなかったのである。

「麦6分米4分の飯」

1900年前後のマッチ工場の姿・・・
まず工場へ入れば、その中に大人の労働者は全くいない、全て貧しい家の子供たちばかりで、その殆どが女の子だった。
そしてそうした女の子でも14、15歳の子は希で、大半が10歳前後、中には8歳と言う者や、信じられないかもしれないが6歳、7歳の子供までたくさん働いているのだが、特にマッチの軸を並べる作業場では10歳以下の子が8割以上、みんな痩せていて、普通の家の子供なら学校で「いろはにほへと・・・」と勉強しているしているのが本来の姿だろうに、マッチの軸を並べる機械の隙間から顔を出して、左右をキョロキョロしながら軸木を並べているのである。
またこうした工場では現在のように休憩時間など殆どなく、朝早くから暗くなって作業が終わるまで休みなく働き、その食事も殆どが雑穀であったとされている。

またこれはやはり1900年代初頭、桐生、足利での話し・・・。
この当時製糸会社の羽振りのよさはつとに知れ渡っていたが、聞くと見るとでは大違い、豊かな自然に恵まれ、出会う人も親切なこうした工業地帯の実態は、言うにはばかられるような悲惨さだった。
製糸工場で働く労働者は全員女性で、さすがに10歳と言う者はいなかったが、それでも12、13歳から20代前半の女性が働き、忙しい時期には労働時間など決まっていなかった・・・朝目覚めたらすぐに作業所に入り、夜12時になるまで働くことも珍しくなく、トイレでさえ朝と昼にそれも交代で決めて行く・・・と言うような有様だった。

食事はワリ麦6分に米4分、これを7分以内に食べて、寝るところは豚小屋と殆ど変わらず、中には布団ではなく藁の中で寝ている者まであった。
そのうえ、雇用主やその子息から関係を迫られる者もいて、彼女たちはそれで子供でもできれば、認知してもらえたのかと言うと、僅かな金を渡され放り出されたのである。
そしてひどい工場になると、こうした製糸の仕事が暇なときは、復帰する時期を決めて他の工場や女給の仕事へ奉公に出され、その給金は全て雇用主が収奪していたのであり、彼女たちの1ヶ月の給金は多くても20円を出なかった・・・20円を現在に換算するのは難しいが、例えば一家4人が1日に消費する食事代の40日分と言うところか・・・8万円から10万円だろうか。

こんな状況だから当然結核や、他の病気にかかる人も多く、そうした人達は医者にかからせて貰えることもなく、工場の片隅に作られた小屋へ入れられ、大した食事も与えられず、死を待つだけだった。
この当時の米の値段は1升8銭から9銭、大手といわれる機械制の大工場でも男子の1日の日当は17銭、女子にいたってはこうした意味で1流企業といわれるところでも1日あたり12銭で、しかもこれは昼夜兼行2交代制で12時間労働の場合であり、紡績労働者の国際比較では、日本の女子の最低賃金がイギリス女子の10分の1、イタリア女子の5分の1、植民地だったインドの女子労働者より安い賃金で働いていたのである。

当時、紡鍾1本あたりの1年間の綿花消費高はイギリス35ポンド、インド134ポンドに対して日本は220ポンドと異常に高く、いかに長時間労働が強いられていたかがわかる。

また1918年に起こった米騒動では、この年の3月に1升20銭だった米の値段は7月には40銭、8月には50銭と言うスーパーインフレに陥り、これはどういうことかと言うと、この当時の日雇い人夫の給金が1日50銭だから、1日働いて米が1升しか買えなかったことになる。
これでは当然暮らせず、その後大変な米騒動に発展して行くのだが、1923年には関東大震災が発生している。

そしてこれは1932年(昭和7年)の記録。
当時世界恐慌から沢山の失業者をかかえ、その上この恐慌は農村部にまで及んだため、農村部の惨状は目を覆うものになった。
この年の国内農家の借金合計は47憶円に達し、1戸あたり平均で837円・・・この額は当時の平均年収より多く、欠食児童(経済的困窮から、決まってご飯を食べることができない子供)が多くなり、食料にするために木の根やわらびを取りにいって、学校を欠席する児童が増え、また娘の「身売り」も横行した。

山形県のある村での話し・・・、この村には15歳から24歳までの娘が467名いたが、その内借金のために売られた娘が110名もいて、他に女中や酌婦に出ている者が150名いたと言う・・・。

いつの時代も厳しい状況のとき、真っ先に犠牲になったのは女性や子供だった・・・と言うことか。