「夢の話」・1

夢を見るのは人間だけでなく、犬や猫、鳥も夢を見ている。
人間と同じようにうなされたり、口を開けて何か言おうとしていたりする。
そんな時、ポンと叩いて起してやると、「ああ良かった夢か・・」みたいな顔をして目を醒ますとこまで人間と同じだ。
では夢はどうして見るのかと言うと、これが実はまだ何も分っていない、そればかりか生物が眠たくなる原理さえ解明されていなのだ。
ただ、どうしたらどう言う夢を見易いか、それくらいは、少しだけ調べた人がいて、今回は2回に渡ってその話をしてみよう。

「恐い夢」
恐い夢と言うと大体何か得体の知れないものに追いかけられ、その挙句に汗みどろになって目を醒ますのが一般的だが、仰向けで膝を立てた状態で寝ると、走れないか走っても前へ進まない夢が多くなる。
また胸に手を当てて寝た場合は恐い夢を見る確率はかなり高く、横向きでも左側に向いて少し姿勢がうつむき加減であれば同じだ。
枕の首に近いところが一番高い状態でも恐い夢になりやすく、こうした夢で一番重なって見易いのが、何かに追われて崖まで追い詰められ、ついに崖から飛び降りて落ちるのかと思えば空を飛んでしまう夢だが、空を飛ぶ夢は性的欲求の自助解消のために起こると言う説がある。
だが高いところから落ちる夢は、布団から片足が出ている状態で寝ている場合に起こりやすい。

恐い夢でこんな話がある。
毎晩寝ると必ず竹に囲まれた山が出てきて、その中腹に階段があり昇っていくと、大きな箱と小さな箱があり、必ずどちらかを開けなければならなくて、開けるのだが、いつも中からいろんなお化けが出てきて追いかけられる、しかもこれは「舌切り雀だ」と思っていて、前の晩は小さな箱だったから今日は大きな箱で・・・と言う具合に前夜の夢から連続していて、10日間程それが毎晩繰り返されると言うものだ。
また、これと似た話で、親しい友人に笑いながら包丁で刺され、腹に冷たい金属が入ってくる感触まで分る夢を、続けて4日見たと言う人もいる。
恐い夢はお化けや黒い人影、たまにUFOや宇宙人という人もいるが、必ず何かに追われることになっている。

対処方法は、胸に手を当てない、右側を下にして横向きか、左側を下にして少し状態が仰向きに近い状態で寝ると比較的恐い夢を見ない。
またうつむいて寝てもいいが、消化器官の弱い人は仰向けか、左側下で寝ないと胃酸の影響で眠れなくなってしまう。
仰向けで寝る場合は、顎を引いた状態になるような枕位置にすると比較的恐い夢は緩和される。

「良い夢」
好きな人の夢を見たいと思うのは誰しも同じだと思うが、写真を枕の下にとか、髪の毛、陰毛、その他いろいろあるが、効力のある方法は今の所見つかっていない。
また、お金を拾う夢も良いものだが、これは片手を布団から出して寝れば、確率的には低いが見やすいと言われている。
片手を出して寝ると基本的には水に関係した夢を見ると言われている。
そして夢の中では何度かに一度水とお金は重なるものだとされていて、こうしたことからお金の夢は片手を出して寝ると良いとされている。

また地方によっては蛇が脱皮した皮を枕下に引くか、頭の上の方に置くかすれば良いとする地域もあり、同じように財布に入れておけばお金が貯まると言う言い伝えは全国的にある。
神仏、先祖の夢は明け方、目が醒める頃に見ることが多いが、どうしたら見れるかと言うと方法はない。
ただ、明け方見る夢は正夢と言って現実になりやすく、場合によっては予知夢になることも少なくないが、その原因は不明だ。

夢の中での性交渉は若い男性に多く、こうした場合は夢精になるが、同じように女性でも性交渉の夢があり、こちらは中世ヨーロッパでは、悪魔の仕業だとされて、その精液は冷たいとされているが、真偽の程は分らない。
また夢の中では排泄をしてはならないとされているが、これは事実であり、大抵の場合夢の中ではトイレが見つからなかったり、人が来たりでなかなか思うように排泄が出来ないシチュエーションになっているはずである。
こうした夢で排泄を実行すると、それは実際にも排泄されてしまう。

「放浪の自由俳人」

種田山頭火(たねだ・さんとうか)本名、種田正一は山口県西佐波令村で大種田と呼ばれた大地主の家に生まれるが、父親の放蕩三昧を苦に、母親が山頭火11歳のときに井戸に身を投げ自殺する。
その後旧制山口中学から早稲田大学文学部に入学するが、もともと繊細な神経だったこともあり心を病んで中退、故郷へ帰って静養しながら家業の造り酒屋の手伝いを始める。

明治43年に結婚し1児をもうけ、また明治44年には萩原井泉水が主宰する俳句雑誌「層雲」に寄稿、大正2年には井泉水の門下となって「層雲」の選者としても参加するようになる。
だが家業の造り酒屋は父親の放蕩と山頭火自身の酒好きのため破産し、妻子を連れて熊本市に移るが、ここで始めた古本屋の経営がうまく行かず失敗、見るに見かねた妻の実家側の親族によって大正9年2人は離婚させられる。

その後山頭火は東京へ出るが、その間に父親と弟は生活苦から2人とも自殺、大正12年関東大震災により被災、命からがら熊本の元妻のもとに身を寄せた。
しかし相変わらずの生活苦から山頭火はついに自身も自殺をはかるが未遂に終わり、熊本市内の報恩禅寺住職に助けられ寺男として再び生活を始める。

大正14年、得度した山頭火は「耕畝」と名乗り、大正15年から寺を出て雲水姿で西日本を中心に俳句を作りながら旅をする。
昭和7年故郷山口の小郡町に「其中庵」を開き、昭和14年今度は松山に移り「一草庵」を開くが翌年この一草庵で生涯を終えた。

これが種田山頭火と言う人の大まかな軌跡だが、何とも波乱に富んだ一生である。
山頭火がクローズアップされたのは、実は昭和50年頃雑誌太陽が彼を取り上げたことがきっかけとなっている。
それまでは一部の俳人達の中での評価だったのだが、このことがあってから山頭火は全国的な支持を受けていくのである。
その俳句の様式は5,7,5とか言う様式に全くとらわれず、ストレートな表現から「自由俳句」と呼ばれた。
この自由俳句では明治初期に主に長野で活躍した「井月」(せいげつ)に憧れ山頭火も長野を訪れているが、当時を語る関係者から洩れ聞こえる話は山頭火のことを褒める者ばかりではない。
彼はこの地で肺炎をおこし、地元有力者の家に2週間滞在していた。

山頭火と井月の決定的な差は「俗」か「聖」かと言う事になるだろう。
井月は本当に乞食をしながらあてもなくさまよって俳句を作ったのに対して、山頭火は知り合いを頼っての旅になっている。
また山口から松山へ庵を移したその理由も関係者は一様に口を濁すが、女性関係の匂いが拭い去れない。
酒が好きで、煙草も吸い、豆腐を好み温泉にも行き、それらが彼を慕ってくる俳人や地元有力者によって支えられた生活を嫌ってはいたが、そこから抜け出せない山頭火の人間臭さ、このことが彼を良く言わなくても後に関係者によって石碑や句碑を建てさせる原動力となっていった。

さらに山口県の地元では破産したとき地元関係者に大きな迷惑をかけることになったため、十数年前記念碑を建てるとき反対運動まで起こるのだが、時代の変遷と共に地元の恨みも薄れ、今日山頭火の石碑は無事建てられている。

種田山頭火、彼は悟りの道で無常を説いたのではなく、侘び寂びに生きたのでもない。
彼の俳句は「生きること」にあったのだと思うのだ。
そしてその生きることがまた自身の死に場所を探す旅であったのだろう。
後世彼の句を愛して止まない根強いファンが一様に彼をイメージするのは、サクサクと雲水姿で道を行くその人ではないだろうか。

山あれば、山を観る
雨の日を聴く
春夏秋冬
あしたもよろし
ゆうべもよろし

「越中富山の薬売り」

少しだけ登りになった道には暑さで逃げ水が立ち、蝉の声はこの時ぞとばかりに喧しくあたり一面に響き渡る。
そのもうおそらく老人と呼ぶべき年齢だろう男性は長年使い込んだ黒い時代遅れの自転車を押し、ときおり歩みを止めては首に下げた日本手拭いで顔の汗をぬぐった。
自転車の荷台には深い茶色の風呂敷に包まれたいくつもの大きな荷物がゴムのロープで結わえられていたが、半袖の白いシャツから伸びた腕は細くともしっかり日焼けし、決してその大きな荷物に負けている訳ではなかった。

この村を通る道はこれ1本ではなかったが、他の道は山道であり、歩くにはそれでよくても自転車を押して通れる道はここしかない。
男性は自転車のスタンドを起して止め、左側の民家が流している余り水をガラスのコップですくい、飲み干した。
田舎の家では水道が整備されていても飲料水は先祖代々使ってきた湧き水や山水を使っていることが多く、こうした水は常に流したままになっていて、家族以外の通行人も水が飲めるようホースや竹筒で家の外まで引かれ、コップぐらいは置いてあるのが普通だった。
水と言うのは不思議なもので、出し惜しみやケチなことをすると涸れるものだと言い伝えられていた。
男性はコップをホースから流れ出る水で洗い、元の場所に戻すとガシャンと言う音と共に自転車のスタンドを外しまた歩き始めた。

この村に来るようになって50年経ったが、顔なじみの人達も随分いなくなり、皆子供や孫に代替わりし、ときおり若い頃から付き合いのある人がいても高齢で話すのがやっとと言う感じだった。
親の後を継いで始めてこの村に来たとき、同じように嫁いで間もなかった若奥さんでも既に亡くなってしまった人もいる。
空家が多くなり、おそらく村人の3分の2以上は自分と同じ高齢者で、一人暮らしと言う家も少なくない。
男性は道路が大きく左に曲がる少し手前にある地蔵祠の近くでまた自転車を止め、今度は土手に腰を降ろした。

ここに生えている栗の木も若い頃はまだ小さく、とても木陰を作るまでには至っていなかったが、今はこうして大きな木陰を作っていて微かに吹いてくる風が涼しい。
近くにある地蔵祠(ほこら)の周りもうっそうとした木々に祠すら見えないほどになっていたが、これには理由があることを教えてくれた村の長老、「あの地蔵さまはな、恥ずかしい地蔵さまで人には余り見せられん、それで周囲の木は切ってはならんことになっとるんだ」
意味ありげなその口調にわくわくして地蔵を確かめに行ったが、どうと言うことは無い普通の地蔵さまだった。
なんで恥ずかしい地蔵さまなのかとうとう聞けないまま長老はかなり以前に旅立ってしまった。

景色は何も変わっていない、しかし人がいない。
農作業で真っ黒になった若夫婦、梅を干すお婆ちゃん、田んぼを見ながらケショロ(長いキセル)で煙草をくゆらす爺さま、暑さの申し子のような子供達、以前には蝉の声に負けないほどの人の声があり、動いている景色があった。
おそらくもうこの景色も見ることはないだろう、いや見れないに違いない。
越中富山の薬売り、男性はこの夏で引退を決意していた。

富山県は日本屈指の製薬メーカー集積県でその歴史も長いが、特筆すべきはその薬の販売形態にある。
長さ30センチ、幅20センチ、高さ18センチほどの木の箱に家庭用常備薬、傷バン、風邪薬、下痢止、シップ薬などを詰めてそれを日本全国の一般家庭に置かせてもらい、使った分だけ半年や3ヶ月ごとに清算するそのやり方は近くに薬店が無い田舎や地方では随分と重宝な仕組みだった。
田舎ではこうした富山の売薬が何人も出入りし、それぞれの売薬によって名前や色が違う薬箱が平均でも1家庭4個くらいは積まれていたものだった。
また薬を売る側のメリットとしても、田舎では人の流出流入が少ない、つまり安定して販売や集金ができた。

都会にこのシステムが少なかったのは、薬箱一杯の薬を初期投資する訳だからアパート、マンション暮らしのような隣人の姿が頻繁に入れ替わるような生活形態ではまずかったからだ。
さらには現代社会のような豊かな情報伝達手段が無い時代、遠いところへ嫁にやった娘や遠隔地に住む親戚縁者の様子を知ることはとても難しいことだったが、こうした顧客へ自分が取引している地域であればその情報を集め教えることもあった。
頻繁に医者にかかれない貧しい地域では富山の薬売りが置いていく薬で大方の病をしのぎ、また縁者の消息を知る手段としても重宝だったのである。
子供達にとっても富山の薬売りが来れば必ず紙風船やゴム風船が貰えたことから、毎年彼等がやって来る時期をとても楽しみにしていて、こちらも大歓迎だった。

しかし時代と共に田舎は疲弊し、人口がどんどん減っていき薬の消費も落ち込んできた。
そして自動車社会に伴い地方鉄道も縮小、廃止が増え古い形態の売薬は交通手段を失ってしまい、安定した仕事を求める彼らの子息は売薬業の後継者となることを嫌ってサラリーマンや公務員を目指すようになる。
こうして売薬業にも整理統合が始まっていったが、もともと全国に薬の箱を置いているため、その顧客台帳はそれさえ持っていれば明日からでも現金収入になることから台帳は業者間売買が可能で、その取引価格は800万円から1千万ほどの値段になっていたのだが、こちらも少しずつ値下がりが始まっていた。
男性の家とて例外ではなかった。
薬を担いで電車に乗り、出張先の家で置かせてもらっている自転車で得意先を回るには既に歳を取り過ぎていたし、子供も後を継ぐことはなかった、と言うより自分がそう望んだのかも知れなかった。
台帳は車を持っている業者に売ってしまったし、今日はこの地域の人達に最後の挨拶に来たのだった。

思うに自然や景色と言うものは、何か人の暮らしとかけ離れたところの大きなもののように考えるかも知れないが、その多くは人によって、人の暮らしによって成り立っているようでもある。
男性はこの土手から見える景色が一番好きだった、だがそれはこの村があり、そこに住む人がいればこそ、そして彼等が好きだったからに他ならない。
だが始まりのあるものには終わりがあることを本当に分るのはこうした年齢にならなければ難しいことなのだろう。

かんかん照り付ける太陽は、村全体に続く稲穂の緑をそろそろ薄めようとしている。
おそらく後1月もすれば稲刈りが始まるだろう。
男性は自転車を押して一軒一軒最後の集金をし、通り道にある大きな杉の木に囲まれた神社でお参りをした。
何を祈ったかは分らない、だがその日以降この薬売りの姿を見た者はいない。

「雨の匂い」

おそらくイメージと言う事になるのだろうが、雨には甘い匂いが付きまとう。

それも砂糖のような極端な甘さではない薄い匂い、実際にそれが甘いかどうかではなく、感じると言う表現が正しいのかも知れない。

丁度プライマーや溶剤が実際には甘くないにも関わらず嗅覚的に甘く感じる、あの感覚に近いが溶剤ほど強い甘さではなく、ほのかな甘さ、気付くかどうかすら微妙な甘さと言うべきか・・・。

乾いたアスファルトに雨が降り出す時、空からポツリ、ポツリと落ちてくる水滴が地面に跡を残せる状態の時、或いはその少し前にはこうしたほのかな甘い匂いがしてくる。

そしてこの匂いは粉末系の匂い、乾いた匂いなのだが、雨が強くなると今度は液体系の匂いと変わってくる。

匂いは香りだけを感じるのではなく、時にはこうして状態を感じることもできるのだが、雨の降り始めは森永のビスケット「マリー」が遠くに置いてあるような、そんな甘い匂いがして、雨が本降りになると今度は躑躅(つつじ)の蜜のような匂いになって行く。

おかしなものだが、私に取って雨の匂いとは森永の「マリー」と言うビスケットの匂いなのであり、同時にここから思い出されるのは「仏壇」なのである。

昔、法事や真宗大谷派の行事になると、家の仏壇に「おかざり」と言って菓子などが供えられたが、その際「けそく」(蓮の花をデフォルメしたお供え用の高台盛器)には「ごまパン」と言って、小麦粉に砂糖を入れ、ゴマを振ったものを焼いた丸い菓子が使われたが、これは基本的には丸餅に順ずるお供え用の形式だった。

だがこの「ごまパン」は当時存在していた三井駅前のお菓子屋さんで売っている時と、売り切れている時が有り、そうした時に代用品として使われたのが、丸い形の直径が近い森永のビスケット、「マリー」だったのである。

街中では既に多くの菓子が出回っていたが、私の住んでいる三井町では甘い菓子はまだまだ憧れだった。

「ごまパン」も悪くは無かったが、硬くて子供には食べにくい、それに比較して森永のマリーはとても上品で、私の憧れだった。

そして仏壇にお供えしてあるこのビスケットは、雨が降ってくるとしけって柔らかくなり、暑い季節だと早くにカビが生えてくる事から、雨が降ってくると早めにお供えから下げられ、子供たちに振舞われた。

仏壇に何がお供してあるかは既に確認済みの子供たち、雨が降ってくると優雅なビスケットにありつける訳で、雨の気配を感じると家へと帰りを急いだものだった。

今でも時々このビスケットを買う時がある。

一枚パリッとかじると、遠い昔家路を急いだ自分の姿と、仏壇から懐紙ごとビスケットを下げる祖母や、祖父、母と、光り輝いているようなこの村の景色が、ほのかな甘さの中に広がって行くのである。

「郷社祭り」(ごうしゃまつり)

石川県輪島市三井町本江(わじまし・みいまち・ほんごう)に所在する「大幡神杉伊豆牟比咩神社」(おおばたかんすぎ・いずむひめじんじゃ)の主要大祭が「郷社祭り」だが、同大祭は輪島市三井町仁行地区(わじまし・みいまち・にぎょう)と輪島市三井町本江地区の祭りながら、昭和60年前後までは能登一円から縁者が集まる大きな祭りだった。

本来は5月2日が大祭だったが、日本政府の連休法案の改定により、例年祝日となった5月3日に大祭が変更された。

同祭は基本的に宵祭り、本祭、後祭で構成され、昭和60年頃までは仁行地区、本江地区では三日三晩飲み明かし、誰が来訪しても各家では酒や肴が振舞われる盛大な祭りだった。

大幡神社には沢山の市が立ち、実はこうした市の主神である市神を祭っているのが本江地区であり、郷社祭りの本来で有る「神杉比咩(姫)命」を祀っているのが仁行地区である事から、この大祭の本来は仁行地区を発祥とするものと見做される。

郷社祭りの起源は「猿鬼退治」(さるおにたいじ)の逸話から始まる「儀式祭」であり、能登一円を荒らしまわっていた猿鬼を退治するために、出雲大社へ相談したところ、出雲から八百万の神々が参戦し、気多大社(けたたいしゃ)を総大将、大幡神杉比咩神社を副将として猿鬼退治が始まり、大幡神杉比咩が舞を踊って猿鬼をおびき寄せ、それを気多大社軍が討ち取った故事にちなむ、相談が祭りとなった珍しい祭りである。

この「猿鬼退治」の古事は比較的詳細が残っていて、それに拠ると猿鬼は単独ではなく、櫓(やぐら)舞台を組んで酒を飲んでいたとされる事から、集団である事が記されていて、能登一円で傍若無人をはたらき、女をさらい、その被害は甚大だった。

そこで村人は氏神様である大幡神杉伊豆牟比咩命(おおばたかんすぎ・いずむひめのみこと)に対処を請願し、神杉比咩命は石川県七尾市(いしかわけん・ななおし)の気多大社(けたたいしゃ)に相談を持ちかけ、ここから連名で出雲大社に討伐の請願が出される。

討伐の請願を受けた出雲からは気多大社を全軍指揮官、神杉神社を副将と決め、八百万の神々がこの討伐に参戦し、山の斜面の砦を築く猿鬼と対峙する。

つまりここから見える猿鬼とは、出雲の神々が結集しなければならない勢力だったと言う事であり、それは出雲勢力と拮抗するか、それに近い規模のものだと言う事である。

そして篭城して中々出て来ない猿鬼、そこで女の神である神杉神社が甲冑の上から十二単(じゅうにひとえ)を身に纏い、その下に剣をしのばせ舞を踊り、猿鬼をおびき出す作戦に出る。

元々女には目が無い猿鬼の事、やがて砦から姿を現し、神杉神社に近寄ったたところを神杉神社が一刺しするが、惜しくも僅かに外れる。

その後神々は一斉攻撃するが、それをかわした猿鬼は現在の能登町当目(のとちよう・とうめ)まで逃げて、ここで小神(ちいさがみ)である仁行のもう一つの神社「外神社」(そとじんじゃ)が手詰まりになった神杉神社に、吹き矢の筒に自分が入って猿鬼を突き刺す事を進言、吹き筒の中に入った外神社を神杉神社が吹いて、これが猿鬼の目を射抜く。

能登町当目の「当目」と言う地名はこの古事に由来し、その流れた猿鬼の血は黒くなって流れ、これがやはり能登町黒川(のとちょう・くろがわ)の由来となった。

深手を負った猿鬼はその後も能登を転々と逃げ回り、やがて現在の輪島市歌波(わじまし、うたなみ)の浜まで逃げ、そこで神杉比咩命の剣に心臓を一刺しされ絶命する。

一度決したら二度と容赦の無い神杉比咩、しかしそうなった事もまた宿命であり、猿鬼を哀れに思ったのだろう、また要らぬ祟りを封じる意味からも自身は甲冑を脱ぎ捨て尼となって、猿鬼を供養した。

これが「猿鬼退治」の逸話であり、この古事にちなんで付けられた地名は多く、神杉比咩神社の発祥は現在の輪島市三井町仁行松尾(わじまし・みいまち・にぎょう・まつお)の奥地とされているが、同じく三井町仁行保勘平(みいまち・にぎょう・ほうかんひら)の上、石神山の下に現存する小さな岩山とされる伝承も残っていて、この岩山には何が祀られているのかは不明だが、祠が存在する。

神杉神社は松尾から時代と共に平地に移行し、一時は三井町小泉(みいまち・こいずみ)まで山を下ったが、その後は現在の三井町本江に安定し現在に至っている。

これはその時々の地域の力関係に拠るものと考えられている。

郷社祭りに関して、先代神杉神社宮司だった白山比咩神社の宮司「山崎宗弘」氏(故人)は、この祭りは来る者を拒む祭りではないが、観光の祭りではない。

この地から出た者たちが一年に一度故郷に帰ってくる地元が主の祭りであり、出会いの少ない男女がここを縁とし出会って所帯を持ち、その子がまた・・・と言う具合に連綿と続くこの地の繁栄の祭りだ、と話していた事を思い出す。

その意味では討伐され得べき「猿鬼」を観光にして利を得ようとする能登の在り様には、若干、節操の無さを思うのは私だけか・・・。

ちなみに、この祭りでは各家々でも宴席がもようされたが、ここで踊られる「にわ踊り」はどう言った踊りなのかは解明されていない。

単に庭で踊ると言う意味ではない事は確かだが、一部記録によると臼をひっくり返し、その上で踊っている情景が伝承されている為、或いは「アメノウズメノミコト」、すなわち天の岩戸の神話に近いような気がするのだが、もう一つ、猿鬼伝説で出てくる「「外神社」、彼は小神(ちいさがみ)であり、天孫降臨時に案内役を努めた「猿田彦命」もまた小神とされている・・・。

さて、今日は雨だが、ささやかなれど酒と肴を用意して、郷社祭りをお祝い奉ろう・・・。