こんなことを書くと不謹慎だが、私は幼い頃葬式が好きだった。いや私だけではない当時この付近に住んでいた子供達はおそらく葬式と言うと皆心躍ったに違いない。 そもそも小さい子供にとって、葬式、結婚式、祭りは同じものだった。 親戚や人が大勢集まり、ご馳走が食べられ、お菓子が貰える、こうした条件が満たされるものは内容が何だろうと区別がつかなかったのである。 だから家で大人達が、どこそこの爺さんが危ないらしいとか言う話を聞けば、悪ガキ共の間にはすぐに情報が広がって、不道徳だが皆心待ちにしていたものだ。 1970年代頃まで、私の村ではどのような人も病院で死ぬことなどまずなかった。 死は瞬間のように思うかも知れないが、それは呼吸が止まったと言う一つの段階に過ぎず、実際は緩やかな流れのようなものであり、それを漠然とでも理解している者にとっては、呼吸が止まるかなり前から死とそれに対する悲しみが始まっているのである。 施設や病院に入れてこうした死のプロセスに接することのない現代では死は突然やってくることになり、それに対して悲しみの感情を現さない者は何かひどく人間性を失ったかのように見えるが、葬式の時に始めて悲しくなる方がどこかで身内の死に対するあり様の幼さを感じさせる。 貧しい時代、貧しい地域にあるものは死に対面する機会が多く、死が現実以上の重みを持たないが、その現実は生の持つ意味が自身にとって絶対無比なものであることを体感させる。 更に時間を多く持つ者が死を単に知識やシュミレーションで知ることは、現実の生と死からの逃避にしかならず、こうした生と死に付いて深く考える者は必ず生きる気力を失う。 1970年代頃まで葬式は基本的には祭りだった。 死者は彼の子供、兄弟などによって体をアルコールで拭かれ白い死に装束を着せられ棺桶に入れられるが、この当時の棺桶は文字通りの桶で、死者は膝を抱えた形でこの桶に入れられ、桶の蓋に釘が打たれるのは出棺直前のことになる。 残酷なように思うかも知れないが、生と死のコントラストとはこうしたものであり、 節分の豆まきみたいなもので、こうした菓子などを参列者はわれ先に拾うのである。 そしてこうした儀式と同時に村の若い衆は薪を切って火葬の準備をするが、村の各地区はそれぞれに民家から離れた山のふもとに火葬場を持っていて、火葬用の薪を切る雑木山まであって、そこから切り出された薪は火葬場の窯に敷き詰められ、そこで死者が燃やされる。 葬儀では参列者、村人、親戚縁者、まかない、火葬の準備をした人達全員が何らか形で「ご膳でよばれる」(お膳の料理を食べる)が、精進料理とは言え、塗りの椀にご飯、吸い物、すいぜん、煮物、香物、胡麻あえ、酢の物に菓子椀まであり、饅頭などの詰め合わせから、「おかざり」と言う名目の別の菓子箱まで付いてくるのだが、これらを総称して「香典返し」と言った。 近年葬式の香典返しはまことに質素になったし、夜伽(お通夜)の膳もセレモニーホール任せになったが、貧しい時代でも死者を弔う式にはここまでのことをしていた訳で、生命の値段が計り知れないほど高くなったと言われる現代日本だが、その言葉とは裏腹に何か薄く、寒いものを感じてしまう。 こうした傾向は結婚式でも同じことで、一昔前なら結婚式と言えば両手に抱えきれないほどの引き出物や菓子を手に帰ってきて、近所にまで配ったものだが、今では商品券とカタログ1冊のスマートさだ。 私は田舎生まれの水飲み百姓の出だから、やはり食べ切れなくてもたくさん菓子や料理が返ってくる式が好きかも知れない。 (後編へ続く) |
「めあかし」
日本で初めてボーナスが支給されたのは1876年(明治9年)の事で、当時の三菱商会はこの時西欧と何等遜色の無い金額、またその基本精神も欧米型のボーナスに近い意味での支給を実行している。
日本では江戸商家の慣習で「仕着」と言う制度が有り、これは「盆」と「暮れ」に商家の当主から奉公人に配られた「心付け」であり、「故郷に帰省するなら着物の一枚も買い、土産の一つも持ちなさい」と言う意味のもので、辞書などではこれをボーナスの起源としているものも有るが、本質的には「仕着」と「ボーナス」は意味が異なる。
「仕着」はあくまでも「経営者の気持ち」だが、ボーナスは「特別給」で有り、実行された仕事がもたらした成果に対し、給与とは別に一時的に支給される報酬である。
この意味で三菱商会の「岩崎弥太郎」が社員に支給したボーナスは、「仕着」の慣習とは一線を画するものと言えるが、三井、住友など同じ三大財閥でも300年以上の歴史が有る財閥も、後年ボーナスを支給するようになった事から、商家の「仕着」の歴史が踏襲された形と、欧米型のボーナスが一体化してしまった経緯が有る。
そして太平洋戦争後の日本は常にインフレーションに喘ぎ、生活はとても大変だった事から、こうした生活を助ける意味で、盆と暮れに一時金を支給する制度としてボーナスは定着する事になった。
輪島塗の世界でボーナスが一般化するのは1965年(昭和40年)前後で、それまでは江戸商家の「仕着」に近い制度で「めあかし」と言う慣習が存在していた。
これは塗師屋(漆器店)の親方(店主)からお盆と暮れに職人や弟子たちに配られるボーナスだったが、その内容はあくまでも気持ち程度のものであり、更には親方の恣意性で金額が決まっていたりするものだった。
この意味でも査定が有るボーナスと「仕着」の差は有るのだが、面白いのは「めあかし」が弟子には二重制度になっていた点である。
塗師屋の弟子には親方からと、そこに勤務している職人達の両方から「めあかし」が出ていたのである。
仕組みとしては親方から職人や弟子たちにボーナスで有る「めあかし」が配れるが、弟子のそれは修行中の身なればとても少なく、為に職人達は貰った自身の「めあかし」の中から僅かずつの金額を集め、それを更に弟子への「めあかし」としていたのである。
みんな通ってきた道なれば、その苦しさや厳しさも解っている職人達ならではの制度が存在していた訳だが、これが欧米型の雇用制度が確立し、やはり欧米型のボーナス概念が一般化する1975年(昭和50年)前後には、消滅に向かって行き、ボーナスは雇用主に一本化されて職人達から弟子への「めあかし」は無くなった。
つまり輪島塗り独自の制度で有り、言葉だった「めあかし」はこの時点で消滅したのである。
「めあかし」の語源は「目明かし」とも「目灯し」と言われるが、その意味するところは「供え物」「燭台に火を灯す」「良い方法で注意を喚起する」である。
少ないが金でまたやる気を起こさせると言う事での「目明かし」、目標が出来たり、少しだけ眼前が明るく感じることが出来ると言うニュアンスの「目灯し」、この両者を包括して自然と「めあかし」の制度や概念ができて行ったのだろう。
だが今はもう失われた言葉である。
「Face bookのゾンビモデル」
大きな山火事が鎮火するモデルは人工的消化活動の外に有る。
つまり山火事は自身で鎮火点を持っていて、そこへ達すると消火していくものなので有り、では何故鎮火していくかと言うメカニズムは分かっていないが、ここに1976年スーダンの「Nzara」で突然発生した感染症、エボラ出血熱の発生とそれが自然消滅したモデルを考えるなら、両者の関係に漠然とでは有るが一定の関係則を見ることが出来るかも知れない。
あらゆる生命、準生命、その生命が生んだシステムは拡大と繁殖によって消滅していくモデルを持ち、これは少なくとも地球上では物理学上の原理とも一致する。
山火事は火が山の頂上に向かう時は速度が速く、山を降りる火は足が遅くなる。
それゆえ全てのモデルがそうとは言い切れないが、山火事の頂点は山の頂点に一致する場合が多い。
同じようにエボラ出血熱では初めから決まった形のウィルスでは無く、無数の形状ウィルスが存在し、この事から一定まで感染繁殖した時、その初期の効力を失う傾向を持ったものと考えられ、これは繁殖し繊細になって行った為、変質速度が速すぎて感染生命体である人間の抗体変化の方が遥かに遅れ、その結果ちょうど円周上を一周した形になったウィルスが自滅したモデルが予想される。
ウィルスの増殖、滅亡は比較的良く知られたモデルでは有るが、この仕組みや原理の基本的な部分は分かっていないものの、その増殖速度と滅亡までの時間には一定の関係則が有り、急激に増殖するものの滅亡速度は速い。
先頃プリンストン大学の研究者である「John Cannarella」「Joshua Spehler」両氏によって発表されたSNSの滅亡論、所謂「Face book」(フェースブック)滅亡論は、その根拠を疫病とそれが収束していく過程をモデルにしていると言われているが、このモデルは他の社会システム理論でも解説が可能で有り、いずれはカードシステムやインターネット社会も同じ運命にある。
即ち拡大によって劣化したものを多く取り込み、その劣化に対抗する為に更なる劣化が生まれ、中が劣化だらけになって初期の利便性を失うからであり、カードを例に取るなら新規申込者は一定の収入が有れば簡単にカードを取得できたが、経済が山の頂上から転落を始めるとその初期の条件は変化し、一端劣化したものは復帰が難しい。
更に経済は元々波だから山があれば谷が有り、時間経過と共に谷の回数が増えて劣化した者がどんどん増え、そこで入会規定が厳しくなって新規入会が減少し、中身は劣化した不良債権と、優良なカード利用者とはカード決済を利用してない者を指す事になり、利益率は年々減少し使いにくいものとなって行き、やがて来る新しいサービスに駆逐される。
これはパソコン市場も同じで、一つの場所に座るなりして画面を見ながら操作する行為より遥かに機動力の有るスマートフォンの出現によって、パソコン市場が限られたものとなって来る中で、例えばブログサービスなどは広告収入が減少し、やがてサービスの打ち切りか、サービスの有料化が始まってくる傾向が現れ、ブログユーザーは一挙に減少する。
また生物には「自己範囲」と言うものが存在し、どんな生物も一定の距離まではそれが自分に利する事なら歓迎するが、この距離を過ぎるとあらゆることが利とはならず、負担となっていく。
つまり仲良くなっていく事は、より面倒な対応を増やす事になるのであり、この点ではSNSなどの比較的狭い範囲の親密な関係は、一定の発展を過ぎれば全てが負の材料となってしまい、こうした関係ばかりにコミュニケーションを依存していると、最後は漠然とした支配から抜け出せなくなり自覚症状の無い内に精神を病む。
その精神を病んだ者が多数を占める中、視覚的に表現するならモンスターやゾンビと化した者の中で、善良な者の存在を求めるなら規制や監視がどんどん強化され、それがface bookであればその大きな枠の中にまた小さな枠を作らなければならず、これによって初期のface bookの範囲や概念は失われる。
発展して行けば行くほど既に消失した面積が増え、内容が無くなり情報は劣化し、人々はまた新しいサービスを求めて彷徨うが、そこでまた新しいサービスが出てもやがてこれは同じ道を辿り乍堕ちて行き、いつしか人類は「情報の破裂」を起こす。
就寝時間を除く一日の5分の1の時間を、たわいも無いコミュニケーションと言う呪縛やゲームに費やしている社会では生産性の向上など望めず、隣にいながらスマートフォンで文字会話しているようでは、到底生身の男女の付き合いなど続くはずも無く、離婚の増加、非結婚希望者の増大は避けられない。
最後にコミュニケーションに付いては男女差が有り、男性のコミュニケーションは並列であり、女性のコミュニケーションは対面である。
即ち女性のコミュニケーション概念から来る友人は「共感」「相互批判しない関係」「支持出来る関係」「共通の目的」などであり、この中には緩くだが共通の敵を持つ者同士の「共感」が存在する。
簡単に言えば今の社会的傾向は女性的コミュニケーションの時代だと言う事であり、ここで言うところの男女の概念は社会的なものである。
現代社会の傾向が女性側に力関係が傾き、それに引っ張られる形で男性のコミュニケーションが女性化してきていると言うことなのかも知れない。
そして日本に付いて言えば、face bookの滅亡もさることながら、民族的滅亡状態に向かっている事も忘れてはならないところかも知れない・・・。
「ナメクジの渡川」
ナメクジ・・・と言えば大概みな顔をしかめるだろう。
だが公式記録ではないが、ドイツのある学者が残した研究レポートにナメクジに関するとても興味深い話が残っている。
秋になって間もないある天気の良い日、午後4時、何気なく風に揺れる茅(カヤ)を眺めていた博士はその茅の葉に1匹のナメクジがへばりついているのを目にする。
通常ナメクジが茅の葉のこんなへさきに登って来ることは少なく、第一そんな葉の先端に行ったところでその先は小さな川、向こう岸までは3mもあるのだ。
不思議に思った博士はそのナメクジを静観していたが、夕方の風にゆらゆら揺れる茅の葉とその上に乗ったナメクジも揺れ、川向こうの茅も揺れていた。
そのとき、博士は何となくナメクジの色が薄くなったように見えたので、目を凝らすとナメクジは更に色が薄くなり、ついには半透明になっていったのだ。
「いやこれは・・・」博士はナメクジをもっと良く見ようと茅の葉に近づいた。
そしてその延長線上にある川向かいの茅に目が行く、なんとそこには同じような高さにある茅の葉に半透明のナメクジの姿があるではないか・・・・・。
博士は両方の茅の葉上のナメクジを観察し続けたが、不思議なことにこちら側のナメクジはどんどん透明になり、川向こうのナメクジが逆に色が濃くなり、ついには30分ほどでこちら側のナメクジが消えて川向こうの茅でナメクジの姿が確定したのである。
博士はこれを機会にナメクジで実験し、同じ現象を2回確認したとレポートに記述し、ナメクジは移動手段が限られていることから、こうしたテレポテーションの能力が備わっているのではないかと推察している。
またこの現象で重大な要素は、風とそれで揺れる茅の葉のスピード、その速度に共鳴している別の茅の葉の存在が必要だとも、瞬間移動はタイミングだとも記している。
ちなみにこのレポートはかなり古いもので、文章中茅と訳されている箇所もおそらくアシだろうし、その信憑性について多くの学者は否定的、と言うより門前払いの扱いをしている。